平田豊さんの思い出 |
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■娘とお見舞いに [あさみ]
その朝、娘の運動会に出かけようとしていた私は、一本の電話をもらい、平田さんの訃報を聞いた。
平田さんには一度だけ会ったことがある。入院していた千葉の病院へお見舞いに行ったのである。娘も一緒だった。食欲もなく、熱があってつらい、という平田さんはいかにもだるそうな感じであった。初めての人と場所に馴染みにくい娘は、終始だまりこくり、平田さんの問に、小さな声で受け答えしていた。そんな娘を気遣って、平田さんは「食堂に行ってごらん」と言った。「この部屋から見える景色とは全然違うんだよ。良い景色なんだ。海が見えるんだよ。行ってきてごらん」と。
娘について食堂へ行くと、必要以上に薄暗く感じられた病室や廊下と違い、大きな窓から、いっぱいに光が差し込んでいた。先に駆け込んで行った娘はあちこちの窓にへばりついていたが「海がないよ」と言う。どれどれ、と見渡すと、確かに私のイメージや、娘の頭の中にあったであろうテトラポットや波の打ち寄せる砂浜は見あたらない。娘のいぶかしげな表情に、妙にあわてて海を探すと、窓の一番端に、病院の建物の角に大きく切りとられて、平たく、鈍く銀色に光るものが見えた。目を凝らすと、海である。娘に指さしながら、平田さんの本にあった記述を思い起こし、平田さんはこの海に、旅先で見た海、故郷の海を見ていたのだろうか、と考えた。帰り際、平田さんは娘に本をくれた。平田さんの著書である。平田さん流の、娘へのComing Outだったのかも知れない。私も娘に本を預けたままにしておいたのだった。
夜、お風呂には入りながら、娘に話した。
「平田さんて覚えてる? お見舞いに行って…。あの人ね、今日の朝、死んじゃったの」
「…エイズだね?」
知っていたのか。「うん」と言って微笑むつもりだったけれど、うまくいかなかった。私と同じだけの時間を平田さんと過ごした娘は、何を感じたのだろうか。娘の世代には、エイズという病が、良い方向に向かって欲しい。平田さんの闘病が無駄にならないように。
■平田豊さんの思い出 [長野多聞]
最初に僕が平田さんとお会いしたのは去年の7月の初めでした(ちょうど一年が経ったわけです)。札幌ミーティング、レッドリボンさっぽろ、おんなのスペースおん、難病連などの団体が共催した講演会で、僕が接待役をやらせていただいたため、平田さんと話す機会がありました。その後も蔵王の温泉合宿でご一緒させてもらったり、池袋や千葉の家に遊びに行ったりしました。
僕が平田さんを見て感じていたのはいつも一人だったということです。それはまわりにバディがいなかったとか、そういうことではありません。人はたった一人で生まれてきてたった一人で去っていく、そういうさびしさを知っている人だったと思います。
「人間は必ず死ぬ」ということは皆知っています。然し、「それはまだ先のことだ」と思っているのです。ですから、多くの人たちは、いつ来るかわからぬ死のことを考えながら生きるよりは、現在をただ生きていくことを選んでいます。いまは不安な時代だと言われますが、その不安の大きな要因は、人生の先に見えている死の恐怖だと思います。死は、先が見えなく不安だろうし、その途中の苦しみは大変だろうけれども、死から目をそらさず向き合えば、人生そのものも輝いてくる、平田さんの臨終に立ち会い「よく死ぬことはよく生きることだ」と実感しました。
平田さん、どうもありがとう。バディの皆様、ご苦労さまでした。われはこの世の弧客なれば
一人何処より来たりて
束の間の旅に哀感し
一人何処に去るのみ
■平田さんに会いたい [広島大学医学部附属病院輸血部 高田 昇]
HIVがとりもつ縁というのがあるのでしょうか。平田さんがエイズ患者だと名乗り出なかったら、私が直接お会いすることは一生なかったのでしょう。私が彼に影響を受けたという訳でもなく、逆でもない。道ですれちがう時に、「元気? 頑張ろうね!」と軽く声をかけあっただけみたい。
それでも、彼の死の知らせは悲しかった。平田さんは彼なりに役割を果したと思う。言わなければならない、伝えなければならないことは、やったのでしょう。でも、平田さんにもう一度会ってみたいという希望はかなわなくなった。淋しいよね。
■私は彼の「生きる力」に感動した [佐藤優子]
エイズ国際会議の開幕や「フィラデルフィア」の好評もあって、一時極端に減少していたエイズ関連報道が最近、また目につくようになってきた。報道の増加は前の二つの理由だけではなく、平田さんの死とこの死に方=行き方が大きく影響しているような気がする。彼の死に関連した報道に接するたびに、彼は死んでもなお戦っているのだと感じずにはいられない。
私はただ一度だけ、彼に会ったことがある。すでに失明し、体力の衰えが見えていたが、色気と洒落気がたっぷりあって、私は彼の「生きる力」に感動した。
私はこのただ一度の機会を得た事を大変誇りに思っている、願わくば、彼のご家族、ご親族が私などより以上に彼の行き方、彼の存在を誇りに思われ、それを世間に威張って表明できる環境が一日も早く整ってほしい。整える手伝いが少しでもできればと思う。
平田さんを最期まで支えてこられた多くの人々に、尊敬と愛情をお伝えしたいと思う。
■お手本にしたい人の一人 [飯島由貴子]
平田さんみたいな人に出会ったのは生まれて初めてだった。私の周りにはゲイである人がいなかったので初めはびっくりし、複雑な思いだったが直接会って話をしていくうちにその思いは少なくなり、面白い人なんだという気持ちの方が強くなった。
私は、まだ知らないところがあるけれど平田さんの行き方に興味がある。もっとも興味を持ちはじめたのは雑誌や、千葉ポートスクエアで行った写真展からだ。写真展の写真の下には一つずつ平田さんのコメントが書いてあったが、その中の一つにタイトル「海」というのがあって「日本という国はとても素晴らしい国。でもそれは多くの人の犠牲の上に成り立っているのかも知れない」と書かれていた。こう思う平田さんの心にひかれたり、喜怒哀楽がはっきりしているところ、いろんなものに興味を持ち、それを自分が納得するまでやるという精神、経験の豊富さ、こうしたものの中に平田さんの人間らしさを感じたのだ。なんかほめてばっかりいるけれど、私にとって平田さんはお手本にしたい人の一人です。最後に、亡くなってからだいぶ日にちが経つけれど、まだ信じられない今日この頃です。
■二週間がたって僕の気持ちは [くわ]
「ちょっとビデオ見るからね」
彼女は言った。どうぞ、と僕は軽く手を振り答えた。今、ブラウン管に背を向けてコタツのテーブルの上で原稿を書いていた。
隣にいる彼女は「さて、見るか」って感じで寝そべり、アゴひじをついてビデオを見はじめた。 今日で平田さんが亡くなってから2週間がたった。
−−声が流れてきた。平田さんの声だった。背中がピクッと反応した。ブラウン管の方を見ると「平田豊一年間の記録」と映ってる。
ちょっと懐かしい気がした。それは僕が平田さんと会うきっかけになった番組だったからだ。 それは10ヶ月ぐらい前のこと。その番組を見て、LAPの清水さんに紹介され千葉の病院で会ったのが最初だった。今でも覚えている、その時のこと。
ちょっとした自己紹介をして、お菓子でも食べながらということで、景色がよく見える踊り場に出た。
清水さんに「さあ、くわちゃんの出番だよ」と言われて、ちょっと緊張したおもむきで方をゆっくりとゆっくりとマッサージした。
すると「この人は優しい人だね、体でわかるよ」と平田さんが言った。僕は思わず「やっぱりわかります?」と言った。そこで清水さんが「普通、自分で言うか? そういうこと」と突っ込みを入れ、みんなでどっーと笑った。そんな瞬間から「友達」という関係になれたと思う。
そんなきっかけのビデオだった。ずっと背中で聞いていた。そうしてると原稿を書いていた手は止まり、視線は宙をさまよってしまう。すると、いくつかの平田さんの姿、顔、声、そしてそれを取り巻く景色が映画でも見るように現れる。
平田さんに会いに行くと、「くわちゃん、こっちにいらっしゃい。私の方に…」とよく口にしていた。そして「若い子はやっぱりいいね」と見えない目で優しそうにしていたのも覚えている。
その眼差しが一番奇麗でかつ、穏やかだったのが海を見ている時だった。
いつの日にか一度、サポート千葉の小平田さんと札幌から来た多聞さんの四人で、千葉の稲毛海岸の海を見に行った。
「海が泣いているね、くわちゃん」平田さんは言った。「うん」僕はよく理解できなかったがそう答えた。
その時の目はどこまでも遠くを見ていた。海を見ているんだけど、もっともっと先にある何かを見ている気がした。
それは何だったのだろうか? 昔の彼氏、彼女、両親、親友、それとも自分? 海を見るときのそれは、言葉が宿っている様だった。
思い出せばいくつだって浮かんでくる。焼肉パーティをしたこと。カラオケを何十回と歌ったこと。そのカラオケで、歌詞を耳もとで読み上げて、それを聞いた平田さんが気持ちを込めて歌い、みんなから喝采を浴びたこと。ゆーえんランドで、食べて歌ってお風呂まで入ったこと。ふとんにくるまって一緒に寝たこと。いっぱい、いっぱい思い出す。
ビデオを見はじめて1時間位たった。
番組は終了した。
いつの間にかブラウン管の方を向いていた自分に気が付いた。番組が終了するまで彼女と見ていたけど、その間は一言もしゃべらなかった。隣で見ていた彼女の目には涙が浮かんでいた。言葉にできない気持ちでいっぱいなんだろうと思った。
平田さんのことは正直に言ってしまうと楽しい思い出しか残っていない。でも、それでいいんだと今でも僕は思う。
■この言葉は生涯忘れられません [ウイズ代表 畑鉄朗]
平田さんとは昨年7月9日札幌でエイズと共に生きるということ−平田豊さん講演会でお会いしました。「健康な人には自分の健康を守る義務があると思う。そして社会的弱者をサポートして欲しい」、その時語られたこの言葉は生涯忘れられません。謹んで哀悼の意を表します。
■ただのオヤジがただの病気と闘った [窪田啓一郎]
2月の下旬、千葉の自宅で平田さんと初めてお会いすることになりました。
私は緊張しながら挨拶しました。しかし平田さんは、私がマスコミの人間であるということで警戒することも身構えることもなく、ごく自然に接してくれました。言葉を交わすうちに、先入観として持っていた「平田さん=ヒーロー・闘志」というイメージは溶けていきました。それは不思議な安心感を伴うものでした。私が昔かじった整骨をやってみましょうかと言うと、喜んで床に寝そべってくれました。
表面的には、エイズという病気に対する偏見は少しずつなくなっていっているように見えます。しかし取材の課程で様々な人びとの本音を聞いていくうちに、「でも僕には関係ない」という健康な人びとと、「感染者の気持ちは感染者にしか分からない」という感染者・患者の人びととの間の溝は逆に深まっているのではないかと感じるようになっていました。
そんな中で私が会った平田さんは「ただのオヤジ」でした。だからこそ、私がいつかエイズに感染しても、平田さんのように瓢々と生きることが出来るかもしれないと思えるようになりました。
平田さんと共に運動を進めてきた方々や、平田さんのお世話をしていた方々は、また違う考え方を持っていらっしゃることと思います。でも私は、平田さんの生き方を、「ただのオヤジがただの病気と闘った」姿として頭の中にとどめようと思っています。
焼香のために遺影の前に立ったとき、平田さんに対してどういうお別れの言葉をかければいいのか分かりませんでした。
たぶん「お疲れさまでした」ではない。きっと孤独の真ん中の部分は誰とも分かち会えなかったはずだ。
私はただの通りすがりの人間でした。でも整骨のときの柔らかい背中の感触が、今でも指に残っています。
■出会いと別れ [旭川 前川勲]
1993年5月、京都の町で僕は平田さんと初めて出会った。まったく偶然にワークショップで彼は僕のパートナーになった。
その時、僕は彼と何時間も話をすることが出来た。
彼は少ししわがれた、細い声でとても沢山のことを僕に話してくれた。僕の気づかなかった多くのことを彼は語り、僕は沢山の贈物を彼から受け取ることが出来た。
翌日、キャンドル行進が行われ、僕は彼のそばを一緒に歩いた。彼の一挙一動、彼そのものから、すさまじいエネルギーが感じられた。悪い足を少しひきずりながら、しかし彼はしっかりと頭を挙げて、まっすく前を見て河原町を歩み続けていた。
感染者として名前を公表した彼は、同じ立場にあってもカミング・アウト出来ない多くの人のために、世間にまっすぐ頭をあげて生きているPWAの代表者としての気合いを持って歩っているんだなぁと、僕は彼の背中を見ながら感じていた。
その時彼は今度北海道に行きたい、それを最後の旅にするつもりだと話した。札幌で彼の講演会が開かれた。
そしてそれが最後になった。彼は、講演会の中で何度も涙ぐんだ。「世界で一番小さな海、そして美しい海、それは涙です」という彼の言葉を僕は忘れないだろう。
彼の死は、日々繰り返されている世界中に沢山いる「もうひとりの平田さん」の死である。誰の死も、死は何時もつらくそして悲しい。
彼は「エイズ感染をした平田」として生きるのではなく、「平田というひとりの人間が、エイズという病気に感染しただけなんだ」ということをわれわれに知らせようとして生きていたのではないかと思う。
彼との出会いそして別れた今、僕は彼の死ではなく彼の生そのものを大切にしたいと思っている。
平田さん、本当にありがとう。
■改めてエイズの事を思った [大西眞澄]
5月29日(日)午後のニュースで平田豊氏の亡くなられた事を聞き、改めて、エイズの事を思った。
昨年12月1日18時30より、新宿5丁目のカフェ・ド・マルティニークにてTBSラジオの取材を兼ねたパーティが行われた夜の事がありありと目に浮かんだ。車椅子に座り、早い到着で有った。平田氏は「皆に逢うのでお風呂に入って来た…」と。車椅子を押している青年が「サウナに行ってきたのです」と、私に説明してくれた。そして「2時間も入ったので汗びっしょりになってしまってね…」と平田氏は付け加えられた。サウナは体が疲れるので長くても15分、そして15分は休んで次は10分位にしないと…、私は言いながら水分を取らないと駄目ですよとウーロン茶を差し上げた。平田氏の周囲には、看護学生の若い方達が集まり、とても楽しそうで有った。少しずつ皆が小皿に色々な料理を取り平田氏に勧めていた。
平田氏が「貴女は何という名前?」と尋ねられたので、「LAPの清水さんの所に所属している者で、皆からマコチャンと呼ばれています」と答えた。
平田氏の手の甲と、手のひらを少しずつ押さえ揉みながら私は「短歌を大分作られて居られる様ですが、私も随分前から短歌の会に入っていて、沢山の作品が有るので今度お聞かせしますね」と話をした。平田氏は「今日の此の場所はどの辺りなの?」と聞かれたので「新宿の花園神社のすぐ横ですよ」と答えたら「ああ…懐かしい所だな…近くに木造の二階建てのアパートはまだあるかな」と尋ねられた。それがどの辺りなのか分からないが「大分此の辺りも、昔と街の様子も変わっていますよ」と答えた。昔の思い出を持って居られるのであろうと思った。平田氏は「其の頃は面白い様に毎日お金が入ってきてね…」と遠い日々を懐かしそうにそれて居られた。
人数が増えて来て、その人達が平田氏の周囲に集まり、はんてんを着たり、帽子をかぶったりされながら楽しそうで有った。平田豊氏と出逢い色々と学ぶ事が多かったが矢張り、生命は限られたものであった。LAPの会一同と共に、平田豊氏のご冥福を祈ります。此の日、5月29日は仏滅であった。安らかにお眠り下さい。
合掌
■口述筆記を手伝ったことも ありました [金田隆詞]
93年3月6日(土)千葉大亥鼻キャンパスにてシンポジウムがありました。その時僕は平田さんのバディをしていて、一緒に会場に行きました。内容は「医療と教育」でした。50人くらい来ていました。その終了後に゛千葉にもボランティアが必要です。活動をしたい方はぜひ残って下さい」と声をかけて集まった10人位の方を中心に考え、作っていったのが「エイズ・サポート千葉」でした。
その時はいったい何が始まるのだろうかドキドキしていました。その日は、病院の近くの狭いアパートから、もっと広い部屋への引っ越しの日でもありました。少ない荷物でしたので3人ぐらいで「ここにベッドを置こうか」「いや、ここにテレビを置こう」「このとびらを取ってしまおう」などみんなで言いたいこと言い、にぎやかに引っ越しが行われた晴天の日でした。
また、平田さんは歌人であり、自慢の短歌とエッセイ、「エイズを生き抜く」をVIEWSに連載していました。6月22日号をもって最終回となってしまいましたが、僕はこれを読むのを楽しみにしていました。ちょうど連載が始まって数回たった頃「VIEWSに出す原稿を言うからそこにある紙に書いてくれ」と言われたことがありました。つまり口述筆記です。何行か進むと、僕が最初から読み上げました。平田さんが頭の中で文章の流れを考え、組み立てて作っていった作品で、その時は3作も作り、僕が編集部にFAXで送りました。この連載は1年余り続きました。多数の作品にありがとう!