今回はお役所のサービスについて述べてみます。現実とのボタンの掛け違えはどこにあるかをいっしょに考えてみませんか。
■世の中のサービスというもの
世の中のサービスというのは、サービスを求めている側の「需要」と、サービスを提供する側の「供給」で説明される。このバランスが崩れるといろいろな現象が生ずる。
たとえば、需要がなければサービスは存在できないのが世の常である。売れない商品をつくっては大損をすると言うのはこういうことである。逆に生産がおっつかなかったりすると、需要が上回っていることになる。
また、需要と供給に絡んで、選択の幅という問題がある。たとえば、ある一つの商品しかないと、今度は「選択の幅」という点で問題が生じてくる。今のDOS/Vパソコンなどは選択の幅がたいへん広く、サービスを求めてくる側の自由度が高い。一方、選択の幅が狭いというのは、非常にマイナーなパソコンの部品などがそうであり、こういう場合は、言い値で買うことになる。「純正品」などもそれに近いが、この場合は、サードパーティーで我慢をするという手がある。
■お役所の提供するサービス
行政サービスというのはどうであろうか。以下に述べるのは行政サービスの理屈であって、実態ではないことをお断りし、少し論を進める。
行政サービスをどうするかは、もちろん、全体のバランスの中で考えられなければならないが、欠かせない重要な点は、経済原理ではサービスを供給しにくい「数が少ない人たち」へのサービス供給が行えることである。
もう一つは、行政サービスは、「教育(啓発普及も含む)」という、この「数の少ない人たち」がかかえている問題点を住民全体で共有できるステップを持っていることである。すなわち、行政サービスは、従来は「一部の特殊な人たちの問題」として片づけられてしまっていたことを、みんなで共有できるステップを潜在的に持っているのである。
行政は、自分がサービスを供給する以外に、公的及び民間のいろいろなサービスを調整するという役割も持っている。供給が健全で選択の幅が確保されていれば、市場原理に任せられるが、供給が不十分あるいは不健全であったり、選択の幅が乏しいような場合は、必要な人にサービスが行き届くように、連携をとって調整するのである。サービス調整とは、個人に対してと、システムに対してと言う場合があるが、エイズ診療の拠点病院の指定や診療協力病院などの指定(指定する前にかなりの調整を行っているのがふつうである)なども、広く言えばこの調整に属する。NGOとGOのつながりは、個人的な関係は別として、オフィシャルにはこういうところからできてくるのである。
なお、公立病院などのサービスは、厳密にはここでいう行政のサービスではない。内容的には民間とあまり変わらず、競合するような場合も多いが、ある程度までは、行政によって公的なサービスの色づけがされている場合も多い。
■需要=要求ではない
行政サービスを行うに当たってはニーズ計測というものが必要なのである。
たとえば、マーケティングリサーチというものがある。どんな商品が求められているか、どんな商品がどれくらい売れそうかなどを、市場調査などで計測するのである。
ニーズ計測はこれとよく似ている。誰にどんなサービスが必要かを測るのである。そして、どうしたらよいかを検討するわけである。
これには多くは統計資料、調査がもちいられ、そのほかに事例(経験)、うわさ、聞き取りなども参考となる。
たとえば、ある県で「エイズ予防法」による「感染者数」が1人であるから、エイズ対策はあまり重要でないと、いうのは間違った検討で、1人しか届け出は出ていないのはなぜだろう、といろいろと考えることが次のステップとなる。
また、エイズ相談などでの経験を、どう反映させるか(可能であれば集団単位で検証したい)と言うことも、検討のステップである。
ニーズを計測しないで供給を行えば、多くの場合需要と供給のミスマッチを起して「税金の無駄遣い」となる。
■教育とサービス
まず、最初に断っておくが、現状では、教育関係者の前で「教育はサービスである」といったら、一部の先生方を除いては敬遠されること間違いなしである。教育というのは、需要側の要求にあわせて行うようなものではなく、絶対的な崇高な行為であって、聖職意識が必要だ、というのが一般的な見解である。
現在の日本では、首都圏や近畿圏を除いては、大学や専門学校以外は、私学が少なく、そのため、「選択の幅」はかなり制限されているのが現状である。
教育というのは、義務であると同時に「憲法で保障された権利」である。ということは、権利を守って発展させるには、私学を振興して選択の幅を用意するか、選択の幅の少ない「公教育」では、住民の意思を最大限反映されたものにする努力が必要である。ここで、先ほど上げたニーズの計測ができるかどうかが、教育の質を高める大きなポイントになるように思う。
教育を提供する専門家が聖職意識を持つことは、サービスの質を高め、水準を安定させるためには重要である。しかし、その聖職意識をサービスを受ける側にまで強制するのはいかがなものかと思う。教育を受けるときの荘厳な雰囲気というのは、その供給する教育サービスの質に伴ってくるものであって、聖職意識に伴って自動的に出てくるものではない(もっとも、以前、大学で教鞭を執っていたわたくしとしては、教える側が一生懸命やっているのに受け手側がいい加減という状況もつらいものであるが…)。この聖職意識は、住民の付託を受けたという認識に転換して、十分にその供給しているサービスの質を自己点検する方向に向かってほしいものである。現に大学では、お堅い国立大学も、教育や研究の自己点検評価を行いだしている。
また、教育というのはフィードバックの集大成であるべきである。つまり、世の中でいままであった困ったことや、教訓というようなもの、そして世の中の人が持っている思いが反映されなければならない。行政サービスの終着駅は、実は教育サービスなのである。
今のエイズ教育にもこういうフィードバックが効いているかどうか、検証されなければならない問題であろう。
(JINNTA[FAIDSスタッフ])