LAP NEWSLETTER

ウイルスは消えない

草田央 

RETURN TO23号目次に戻る

 昨年(1997年)4月、アメリカの雑誌がマジック・ジュンソンの身体からHIVが消えたと報じて話題をまいた。日本では朝日新聞が、5日付朝刊で「元NBAスーパースターのジョンソン、エイズ完治?」とのタイトルで報じた。同様のニュアンスで伝えたマスコミも少なからずあった。が、朝日新聞は翌日「マイケル・ジョンソンはエイズ完治ではない 医師団が発表」と事実上の訂正記事を掲載したこともあり、笑い話のネタに利用させてもらった程度の話であった。
 ところが、今年(1998年)2月28日号の『週刊現代』には『川田龍平くんの身体からエイズ・ウイルが消えた!』との記事が掲載。さらに創刊された『日経ヘルス』4月号も『「エイズ」は治る 驚異の「カクテル療法」あのマジック・ジョンソンのHIVが消えた』と報じた。このほかにも「ウイルスが消えた」と報じるマスコミは多い。いずれもセンセーショナルなタイトルと違い、報道の細部まで注意すると、あながち間違った内容だとも言えない。しかし確実に『誤解』は広まっている。

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラストライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラストライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト
センセーショナルな見出しで報道した日経ヘルス[左]と週刊現代[右]

 どのような『誤解』かと言うと、カクテル療法がエイズの『特効薬』となり、エイズが治癒し得る病気になったという誤解である。もはやHIV感染者は、治療さえしていれば発症なんてすることはない、めでたしめでたし……という誤解である。そう言えば最近のエイズ予防キャンペーンも、早期発見のメリットを過大に強調して、検査を勧めているように感じる。中には、発症予防が可能になってしまい人々の警戒心が薄れ、感染が広がるのではないかと警告する人まで出てきている。もうエイズ治療体制の整備は必要十分で、再び感染予防キャンペーンに力を注がなければならないというわけだ。
 しかし、エイズ医療においては、楽観視できるどころか、日に日に悲観論が強まっているという。そこで今回は、『ウイルス消失』の誤解をといてみたいと思う。

 ■「ウイルス消失」と「検出限度以下」

 ウイルス消失騒動の発端は、一昨年ごろから血中のウイルス量が測定できるようになったことに始まる。「RNA定量検査」などとも呼ばれるこの検査には、当然のことながら感度というものがある。この感度は検査方法によってさまざまであるが、日本で保険適用されているのはRT-PCRという検査方法で、最低検出感度は1ミリリットルあたり四〇〇コピーとされている。つまり、極端な話、1ミリリットルあたり三九九のウイルス量であったとしても、この検査方法では「検出限度以下」ということになり、マスコミで言うところの「ウイルス消失」となるわけだ。「検出限度以下」と「ウイルス消失」とは、その意味するところは大きく異なる。「ウイルス消失」には、あたかも完治したかのようなニュアンスが含まれるからだ。それゆえ解説書の中にはカッコ書きで「ウイルス消失を意味しない」と注意書きしてあるものも多いぐらいだ。
 bDNAと呼ばれる検査法の最低検出感度は、一万であった(その後改良されて五〇〇になったとも言われる)。この場合は、一万未満が「検出感度以下」ということになる。研究所レベルでは、最低検出感度が五〇以下のものも存在し、アメリカでは認可申請がなされる方向だという。技術の進歩にともなって、今後ますます感度の高い検査法が登場してくる可能性は高い。そうなると、今までの検査法では「ウイルス消失」とされていた人でも、「ウイルス発見!?」という事態にだってなり得るのだ。まず「検出限度以下」という意味を正確に理解してほしい。

 ■「血中」外のウイルスは測定されていない

 次に、この検査法は、あくまで『血中の』ウイルス量を測定しているに過ぎないという点に注意してほしい。HIVは体中いたるところに存在している。HIVが身体のどこに偏在し、主にどこで増殖しているのかは必ずしも明確ではない。しかしながら、主にリンパ節ではないかと主張する人は多い。そうすると、血中のウイルスは、あくまでリンパ節からあふれ出てきたものに過ぎないともいえるのではないかと個人的には思うところだ。抗HIV剤は主に血中で濃度が高まり抗ウイルス作用を発揮する。リンパ節での抗ウイルス作用というのはあまり期待できないのではないかとも思うのだ。
 もちろん、血中のウイルス量が全身のウイルス量を(ある程度)反映しているのではないかという期待はあるし、そういった主張は多い。しかしながら、ここで言いたいのは、たとえ血中のウイルス量が完全にゼロになったとしても、それは身体からHIVが消滅したことを意味しないということだ。それが証拠に、血中のウイルス量が永年検出感度以下であっても、抗HIV剤の投与を中断すれば、再びウイルスは増殖を始め、血中のウイルス量も増加し始めるのである。
 人類は、いまだかつていったん身体の中に入ったウイルスを排除することに成功したことはないといわれる。例えば、皆さんの多くが子供のときに『水ぼうそう』になった経験をお持ちだろう。その原因となった水痘症ウイルスは、水ぶくれの消失とともに消えたように思われるかもしれない。が、あなたの免疫機構におさえ込まれながら、今も神経節にひっそりと潜んでいるのである。おさえ込んでいる免疫機能が何らかの理由で低下すると、今度は帯状疱疹という形でウイルスが再び暴れだすのである。
 したがって、ウイルス性疾患の治療目的は、ウイルスを身体から完全に排除するなどという絵空事ではないと思うのだ。ウイルスをコントロール可能なレベルでおさえ込む、いわば「ウイルスとの共生」が治療の目標として現実的な選択だと思う。HIV感染症において血中のウイルス量を検出感度以下におさえ込むということは、この「HIVとの共生」が可能になるかもしれないという意味でとらえるべきなのである。

 ■抗HIV薬の効果の判定には有益

 「マジック・ジョンソンのHIVが消えた」「川田龍平くんの身体からエイズ・ウイルが消えた!」と騒がれているが、抗HIV療法によって血中ウイルス量が感度以下になることは、それほど珍しいことではない。AZTと3TCとインジナビルの三剤併用療法のある臨床試験では、六八週後において被験者の八六%が四〇〇コピー未満となり、さらに七一%が五〇コピー未満になったという。いわば大多数の被験者のHIVが『消えた』ことになる。
 血中ウイルス量測定の有益性は、まず新薬の認可基準として認められつつある。今までは、いわば間接的な指標ともいえるCD4を測定し、新薬の有効性を判断していた。たとえ新薬に抗HIV効果があったとしても、それは必ずしも即座にはCD4の値にあらわれてはこない。それゆえ対象群を置き、長期間にわたる大規模な比較検討試験が必要であったのだ。それに比べて血中のウイルス量を測定することは、少なくとも血中の抗HIV効果を判定するには、目に見えて有為な効果を確認することが可能である。例えば、熊本大学で実験しようとしていた遺伝子治療がアメリカで中止されたのは、血中のウイルス量を全く減少させないと判明したことが大きいと言われている。
 今後は、被検者の一定割合以上が検出感度以下になることを、新薬認可の一つの基準としようという動きもある。つまり、この場合、ウイルス量が検出感度以下になるということは、薬が有効に機能しているという意味以上のものを持たないことになる。「この薬を飲み続けても意味がある」「薬に対する耐性などができていない」という意味なのである。もちろんこれは喜ばしいことではあるが、大喜びするほどのことでもないように感じる。少なくとも「完治した」ということとは全く次元の異なる話である。

 ■「セットポイント」を低く抑えることが必要

 血中のウイルス量測定でわかったことは、薬の効果だけではない。ウイルス量により予後(臨床経過)が異なることが判明したのだ。
 血中のウイルス量は、感染直後から急激に上昇し、身体の免疫反応によって一定レベルにおさえ込まれることが判明している。その後、ウイルス量は徐々に増加し、発症に至ることになる。この一定レベルのウイルス量は「セットポイント」と呼ばれているが、これには大きな個人差がある。セットポイントのウイルス量が三六、二七〇コピーより多いと、六二%の感染者が五年以内にエイズを発症しているという。一方、セットポイントのウイルス量が四、三五〇コピーより少ないと、五年以内のエイズ発症率は八%に過ぎないということがわかったのだ。
 ここから類推されたのは、じゃあ感染者のウイルス量をできるだけ低くおさえ込めば、発症予防につながるのではないかということだった。実際、抗HIV剤を使って人為的にウイルス量を下げても、発症率・死亡率が下がるということは事実のようである。それゆえ「できるだけ低く」ということになり、「四〇〇以下は当たり前、五〇以下におさえることが必要」との声まであがってきている。

 ■プロテアーゼ阻害剤の専売特許ではない

 「ウイルス消失」は、何もプロテアーゼ阻害剤を用いたカクテル療法の専売特許ではない。おそらくプロテアーゼ阻害剤の登場とRNA定量検査の登場が同じ時期であったために、プロテアーゼ阻害剤を用いたカクテル療法の、いわば『神格化』とも言うべき特効薬神話が生まれたのではないかとも思うのだ。
 例えば、AZTと3TCの併用療法の治験で、四十八週目に被験者の七二%が検出感度以下になったという報告がある。だからといって、インジナビルを加えた先の臨床試験と同様の効果だと言うわけではない。被検対象となったグループのウイルス量がそれぞれ異なるからである。三剤併用の方が二剤併用よりも効果が強いことは明らかとなっている。しかし、感染者によっては、二剤併用でもウイルス量を十分感度以下におさえることができることをこのことは示している。
 逆に言えば、三剤併用のカクテル療法であっても、ウイルス量が多ければ感度以下にすることは難しくなる。臨床試験の多くは、それまで抗HIV剤の投与を受けたことのない人を対象にした結果である。今まで様々な抗HIV剤を用いてきて薬剤耐性ができてしまっている人にとっては、同様に感度以下にすることは難しいかもしれない。しかし、個々のケースで見た場合、大事なのは「できるだけ低く」ウイルス量をおさえることであって、必ずしも感度以下にすることではないとも言えるのだ。ウイルスが消失しているからといって喜ぶべき話でもないというのが、この文章の狙いだが、ウイルスが消失していないからといって必ずしも悲観すべき話でもないのだ。

 ■分かってきたカクテル療法の可能性と限界

 そもそもカクテル療法は、多大な副作用をもたらす。それに加えて「未だかつて人類が味わったことのないほど」厳格な服薬管理が必要とされる。一回でも飲み忘れれば、薬剤耐性ウイルスが出現する可能性が高まる。あるプロテアーゼ阻害剤に耐性ができてしまうと、「交差耐性」と言って、ほかのプロテアーゼ阻害剤に切り替えても効果は期待できなくなる。現在、四種類のプロテアーゼ阻害剤が認可されているが、交差耐性を考えると事実上一種類とも言える状況である。
 それでも、徐々にではあるが、服薬しやすい方向で薬が開発されつつある。が、まだまださまざまな理由から服薬を中断せざるを得ない状況に追い込まれる人は多い。そうなると、予後は極めて悪くなる。さまざまに薬を変えてみることになるが、効果が確認されて推奨されるような組み合わせは存在しない。何とか時間稼ぎをしているというのが実際のところだろう。
 日本では1998年現在、九種類の抗HIV剤が認可されていると思うが、武器となる薬の選択肢が九通りにもなったということを必ずしも意味しないと思うのだ。いまや単剤投与は、特別な場合を除いて、推奨できる治療法ではなくなっている。多剤併用で、しかも四種類のプロテアーゼ阻害剤を一種類と数えれば、治療法の選択肢が必ずしも増えているわけではないことに気づくだろう。
 幸運にもカクテル療法を続けられている人でも、これがいつまで続けられるかは未知数だ。服薬管理の厳格さは、ニューズレター22号に掲載された「薬の服用と生活リズム」を読むと、よりリアルに感じられる。「これを一生続けるなんていうことは不可能だ」という声は根強い。とすると、いずれは全員が脱落する。脱落したあとの治療法はどうするのか?
 カクテル療法によって、たしかに延命の兆しは見えてきた。しかし同時に、その限界も明らかとなってきた。「患者の生活の質(QOL)を著しく低下させてまで、延命をはかることに、どのような意味があるのか」との問題提起も起こりつつある。いま医療界に広がりつつある悲観論は、こうしたことを反映しているのである。

 ■ふりまかれた「誤解」

 もともとカクテル療法が登場したときに、「AZTが登場したときに抱いた希望と、その後の失望を考えると、今度は慎重に見極めたい」とする見解が大勢を占めていたように思う。ところが、まさに危惧したとおりの状況になりつつあるのではないだろうか。どうしてこんなことになりつつあるのか?
 少なくとも日本では、薬害エイズの和解にともなう治療体制の整備とカクテル療法の登場が同じ時期であったといえよう。「もはやHIV感染症は治療可能な疾患となった」との主張のもとに、カクテル療法が強力におし進められていった。診療拒否をなくし、差別偏見のもととなるエイズへの恐怖をなくすには、「エイズは、カクテル療法によって、治癒し得る病気となった」との『誤解』を積極的にふりまいたフシがある。
 もちろんそれによって医療体制が整備されてきた側面はあるだろう。昨年は発症者および死亡者とも激減しているのも事実である。しかし一方で、大きな弊害をもたらしつつある。ふりまかれた安易な幻想によって、医師も患者もHIV感染症に真剣に取り組まなければならない厳しい状況を忘れてしまったかのようだ。それゆえ、いい加減な推奨されない処方をする医師も多いと聞くし、患者も指示された服薬を厳格に守れない。また、前述したように、HIV治療には個人差があり、すべての感染者にカクテル療法が適用されるべきでもない。にもかかわらず「カクテル療法以外は治療にあらず」といったキャンペーンが繰り広げられていった面は否定できないであろう。
 一般に医師も患者も目先の(短期的な)目標設定を置きたがり、最終的な(長期的な)ゴールを忘れてしまいがちである。HIV感染症の場合、前者は血中ウイルス量を低くおさえ込むことであり、後者は患者が日常生活を何不自由なく送り天寿をまっとうすることである。少なくとも「ウイルスが消えた」という事態を最終ゴールであるかのような錯覚をもってしまうと、長期的にはかなり厳しい状況が訪れるのではないかと思うのだ。
 専門家たちも、この危険性に気づき、昨年あたりから一転して悲観論(慎重論)を主張し始めた。しかし今度は、先の楽観論がマスコミのセンセーショナリズムの利害と一致してしまう。悲観論と楽観論、読者や視聴者がどちらを望んでいるのかをマスコミは十分理解している。誰だって「エイズは完治する」という幻想の方を喜ぶのだ。そして、そのセンセーショナリズムな報道を肯定する理由づけとして存在するのが、「エイズは完治する」という幻想をふりまいた方が、治療体制の整備や差別偏見がなくなるという先の主張なのかもしれない。

 ■危惧される薬剤耐性ウイルス出現の「促進」

 HIV治療は、今、個々の病状に緻密に対応した処方と厳格な服薬管理によって、微妙なバランスを保っているというのが現実だろうと思う。カクテル療法幻想によってもたらされた医師と患者の安易な態度は、薬剤耐性ウイルス出現の可能性を促進する。その結果、今後、再び発症者・死亡者数が増加するのではないかということが、今もっとも危惧されることなのである。

[草田央]
E-MAIL aids◎t3.rim.or.jp
◎を@にしてください
ホームページ http://www.t3.rim.or.jp/~aids/


RETURN TO23号目次に戻る