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なぜ感染爆発が起こらず、低率に保たれているのか
フィリピン共和国におけるHIV/AIDS流行の疫学

前在フィリピン日本大使館二等書記官、現厚生労働省健康局疾病対策課 
三宅邦明 

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 I.はじめに

 フィリピン共和国(以下、「比国」)において最初のエイズ患者が発見された1984年当時、海外との激しい人口移動、発達した性産業、低いコンドーム使用率、高い性行為感染症罹患率、輸血市場の大半を占める未検査の売血等のリスクファクターの存在に、HIV/AIDSの感染爆発が危惧され、2000年には9万2千人を超える感染者数が予想されていた。(1)このため我が国は1994年の日米包括経済協議において日米両国が共同して解決すべき全世界的問題とされたエイズ対策対象国として比国を指定し、1994年よりエイズ対策プロジェクトを開始した。しかし、その後1998年に比国保健省が世界保健機関(WHO)と行った推計によればHIV感染者数2万9千人とされ、更に知見の集積に伴い2000年の推計では5千人にまで下方修正が行われた。(2)予想された多くのリスクファクターの存在にも係わらず比国のHIV罹患率は他のアジア諸国に比べ驚くほど非常に低率に保たれている。本稿では、これら多くのリスクファクターの存在にも係わらず、予想を大幅に下回るHIV感染者数で推移している原因について、比国におけるHIV/AIDS流行の状況、これらのリスクファクターの状況について調査・分析を行う。

 II.比国について

 比国は南北1851kmにわたり散在する約7100の島々で構成されるが、ルソン島、ミンダナオ島、パナイ島等11の大きな島が全面積の92.3%を占める。西は南シナ海、東は太平洋、南はスルー海とセレベス海、北はバシー海峡に面し、総海岸線長は日本とほぼ同じ3万4600kmで典型的な島嶼国家である。
 IMR(乳幼児死亡率)は、31/千出生、U5MR(5歳児未満死亡率)42/千出生、平均寿命は68.6年であり、IMRは我が国の1960年の状況と重なる。また、近年、国連開発計画(UNDP)が国民総生産(GNP)に代わる開発の指標として、平均寿命、成人識字率、国内総生産(GDP)の3つを勘案した人間開発指数(HDI)を開発、発表しているが、それによればフィリピンは70位であり、これはタイの66位より悪く、102位のインドネシアより良好である。(3)
 比国の宗教は、14世紀にアラブ人交易者を通じてもたらされたイスラム教とスペインの統治下において布教されたキリスト教とに大別される。このうちキリスト教が全人口の約93%を占め、特にコンドームの使用を含む人工的避妊法の使用を禁じているローマン・カトリック教徒が多勢を占めている。
 人口は7650万人(2000年の国勢調査)であり、いわゆる性活動年齢といわれている15歳から49歳の人口は約4千万人とされている。また、1995年から2000年までの年平均人口増加率は、2.36%とアジア諸国中でも非常に高率である。

 III.HIV/AIDSの状況

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト
 
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 現在、比国におけるHIV/AIDSの状況把握は、Passive surveillance (受動的監視)及びActive surveillance(積極的監視)の2種類のサーベランスシステム通して行っている。
 Passive surveillanceは、病院、診療所、検査所及び血液銀行で発見されたHIV感染者を保健省が集計しているもので、2001年11月までに累計1589人のHIV感染者(うち、537人がAIDS患者)が確認されている。年次推移上、大きな変化はなく年150〜200程度の報告が続いている。(図1)同時期までに報告された感染者は、半数以上が男性であり(61.0%)、感染経路としては性交渉を通じた感染が大半を占め(83.4%)、その大半が異性間性交渉である。また、海外出稼ぎ労働者(OFW; Overseas Filipino Workers)に感染者が多く(N=434/1589 27.3%)そのうち、船乗りが38%とかなりの割合を占める。図2に、報告例の性別・年齢別内訳を示す。
 Active surveillanceは比国の主要都市10ヶ所において毎年ハイリスクグループ群を対象に行っている。(4)直近の2000年3月に行われた調査では登録女性性産業従事者(registered female sex workers: RFSW)のHIV有病率は0.13%、未登録女性性産業従事者(freelance female sex workers: FLSW)のそれは0.07%であり、全ての調査時期において両者とも1%を大幅に下回り続けている(RFSWの有病率0.07〜0.21%)。同性愛者(men who have sex with men: MSM)、注射麻薬常用者(injecting drug users: IDUs)については、全11回を通して全ての検体を合計した場合のHIV陽性割合は、MSMで0.04%(N=2/4514)、IDUで0.05%(N=1/1846)であり、いずれのハイリスクグループも大変小さい有病率であることが伺われる。
 これらのデータを基にフィリピンのエイズ対策実施者である保健省、フィリピン大学、赤十字社、NGOの代表者とWHO等の国際機関、我が国、米国等の各国援助機関の代表者の出席のもと行った会議(以下、コンセンサス会議)の結果、2000年の比国のHIV感染者数は5千人と推計された。(2)この5千人を全人口で除した有病率は0.007%となり、これは、同様に算出したアジア近隣諸国のHIV有病率であるベトナムの0.155%、マレーシアの0.183%、タイの1.129%(2)に比較して驚異的に低く、我が国と同値である。図1に示すように、各年のコンセンサス会議で推計された感染者は、1993年に行われた感染者の増加推移の予想を大きく下回る。

 IV.HIV/AIDSの流行リスクファクター

 次に、いわゆるリスクファクターの状況について概要を記す。

1.人口移動
 比国公用語はフィリピノ語と英語であるため多くの者が英語を話すこと、また政府が海外出稼ぎ労働を推奨していることもあり1999年の1年で約65万人がOFWとなって出国し、国内人口7650万に対して累計約492万人ものフィリピン人が約160の国や地域で働いていると推定されている。(5)フィリピン海外雇用庁(POEA)によると出国先は、多い順に日本7万人、サウジアラビア6.3万人、香港2.8万人、台湾2.3万人で、業務は多い順に家事手伝い6.2万人、ダンサー3.5万人、歌手3.3万人、オペレーター0.9万人となっている。

2.性行為関連感染症の状況
 コンセンサス会議の1999年の推計によれば、性産業従事者の有病率は淋病15%、クラミジア35%、梅毒4%、トリコモナス5%である。(2)また、一般人とほぼ同値と考えられる妊産婦の有病率は淋病0.6%、クラミジア10%、梅毒1.3%、トリコモナス2.5%であった。(2)これらの罹患率を過去の研究と比較すると、クラミジアは性産業従事者、一般人共に増加傾向を示しているが検査体制の確立によるものである可能性も高い。コンセンサス会議では、各研究間の比較は難しいが増加傾向が見られるとしている。(4)
 一方、保健省の独自調査(1991年から1994年)(6)及びActive surveillance(7)(1995年以降)を見る限り増加傾向はみられない。

3.性行動について
 MENESSAという調査において大都市3ヶ所(ケソン市、セブ市、ダバオ市)の男性に面接調査をしたところ、平均初婚年齢は25歳、平均性交開始年齢は19歳であった。(8)また、フィリピン大学がYoung Adult Fertility Survey II(YAFS-II)において15歳から24歳の1万879名の調査をしたところ、57.5%の既婚男性及び34.5%の既婚女性が結婚前に性交体験を持ち、4%の既婚女性及び16%の既婚男性が婚外性交体験を持っていた。また、売春経験を持つ男性は年齢と共に増加し24歳男性の20%が経験を持っていた。
 一方、毎年200万人を超える外国人観光客が訪れる比国は大きな性産業を抱えており、ILOの調査によれば50万から200万の性産業従事者がいると推定されている。また、Ofreneo他の研究によれば、都市部成人人口の1%、地方部のそれの0.5%が性産業に従事し、総計40〜50万人とされている。

4.HIV/AIDS防御に関する知識、行動について
 1999年に比国保健省の実施したハイリスクグループ群を対象としたBehavioural Sentinel Survey(BSS)によれば、適切なHIV感染の防御法を理解している割合は、RFSWで74%、FLSWで60%、MSMで66%及びIDUsで78%であった。
 一方、実際の防御法の実施についてはGladysらが(9)、1998年にマニラ首都圏(マカティ市、パシッグ市)の1159名の女性性産業従事者及びゲイバーで働く男性100人に面接調査したところ、常にコンドームを使用する者は女性で84.9%、男性で65.1%であった。一方、BSSの結果ではRFSWが不特定者と最後に性交渉を持った際のコンドーム使用率はマニラ首都圏(パサイ市、ケソン市)においては同様に高い数値であったが、地方都市(バギオ市、オロ市、ゲンサン市等)においては40〜60%の使用率にとどまっている。

5.注射麻薬使用、血液製剤
 注射麻薬の使用率についての情報は限られており、データもばらつきがあるが、Trends-MBL surveyによると男性の5%、YAFS-IIでは男性2%、女性2%未満となっているが、一般に薬剤乱用者は多いものの注射器を利用する者は少ないとされている。
 血液製剤は、売血を禁ずる法律が1994年に施行されるまでその供給量の約7割が売血であった。現在、売血は一部の例外を除き禁止されているが、未だマニラ首都圏の1割は売血により賄われている。

 V.対策実施体制

 比国HIV/AIDS対策の最高機関は保健省長官を長とする政府機関、財界、NGOの代表で構成される比国ナショナルエイズ審議会(PNAC)である。当機関によりエイズに対する中期計画(2000年〜2004年)が作成されている。
 HIV/AIDS対策の最前線機関は主要機関として全国に約150あるSocial Hygiene Clinic(SHC)が、その補完として医療機関、NGOがある。SHCは、地方自治体に所属し、条例により風俗業、接客業に従事する婦女のHIV・STD定期検査、治療、予防教育を行うこととなっているがHIVのスクリーニングが可能な施設は未だ10箇所前後に限られる。比国は、憲法にNGOの役割が記載されるほどNGOが多く活動が盛んな国であるが、この分野についても200を超えるNGOが啓発活動に力を入れておりいくつかの団体はHIVのスクリーニングも行っている。
 各施設の検査室でスクリーニング陽性となった検体は、献血検体については熱帯医学研究所(Research Institute for Tropical Medicine: RITM)、その他の検体についてはエイズ中央共同ラボラトリー(STD/AIDS Cooperative Central Laboratory: SACCL)において確定診断される。これらの施設は、いずれも我が国の一般無償により施設を供与したと共に数度のプロジェクト方式技術協力により多くの日本人専門家がその発展を支援してきた研究所である。

 VI.おわりに

 1984年のHIV感染初例の発見以来、予想されていた感染爆発は未だ起こらず低率に保たれている訳であるが、コンセンサス会議によれば、このようにHIV/AIDSの罹患率が低く、感染者の増加割合が低い原因として(1)性産業従事者の性交渉パートナーが少数であり、性交渉ネットワークが広範囲でない。(2)(女性性産業従事者の顧客としての)男性と性産業従事者との接触が低い。又、複数の性行為の相手がいる者であっても、一時期に一人の相手しか持たない“一夫一妻制の連続”であることが多い。(3)一般男性のほとんどが単数の性交渉パートナーしか持たない。(4)肛門性交を行う男性がほとんどいない。(5)潰瘍性の性行為関連感染症罹患率が少ない。(6)IDU人口が少ない。(7)ほとんどの男性が割礼している。(8)フィリピンの地勢的特徴のため。の8項目を挙げている。(4)
 保健省の疫学担当官によれば、これらの8項目の中でも特に(2)及び(6)を最大原因としている。上記BSSによると比国の性産業従事者は平均して週に2.2〜3.5回ほどしか売春行為をしておらず、この頻度の少なさが(2)を裏付けるとのことであった。(2)
 比国に対する保健医療分野の国際協力に係わる者として、この比国におけるHIVの状況に興味を持ち、その調査方法、リスクファクターの状況について調査をするとともに、保健省、WHO、JICA他様々な国際機関、ドナー等と議論を持った。その結果、比国の人口7650万人中で5千人しかHIV感染者が存在しないことについてその調査方法の不備ではなく実際に少数である可能性が高いことがわかった。しかしながら、現在に至るまでその低いHIV感染率の理由について充分な解析はなされていないと考える。
 今後は、より効果的な比国のHIV/AIDS対策のためだけではなく、新たな世界のHIV/AIDS対策に活用できるような新たな知見の獲得も目指し、上記8項目について、医学的な見地のみならず、社会学的、行動学的など他分野と連携し、さらに深い研究・分析を行うべきと考える。
 最後に、調査に協力いただいた方々、ならびにご指導いただいたWHO西太平洋地域事務局・葛西健感染症対策官に心よりお礼を申し上げます。

[三宅 邦明]

参考文献
(1) STI/HIV CONSENSUS REPORT ON STI, HIV and AIDS Epidemiology Philippines: WHO
(2) HIV/AIDS IN ASIA AND THE PACIFIC REGION 2001: WHO
(3) Human Development Report 2001: UNDP
(4) STI/HIV CONSENSUS REPORT ON STI, HIV and AIDS Epidemiology Philippines 2000: WHO
(5) データブック国際労働比較(2001年版):日本労働研究機構:P136
(6) 1995年比国エイズ/STD対策計画資料
(7) The 2000 Technical Report of the National HIV/AIDS Sentinel Surveillance System
(8) MENESSA of Men's Study on Sexuality and AIDS, The Behavioural Science DepartmenDt of De La Salle University
(9) Report on Basic Survey and Recommendation for the Educational Package Development,DOH

※日本医事新報2003年4月5日号に掲載された原稿をご好意により転載させていただきました。


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