Q1.AIDSは知れば感染しないとマスコミは言っているが、それなのに何故日々感染者は増加しつつあるのか
A.まず、「日々感染者は増加しつつあるのか」という前提から。本当のHIV感染者の数は、神のみぞ知る、です。どういう根拠をもとに「日々増加しつつある」と断定されているのかはよく存じ上げませんが、エイズサーベイランス委員会の発表する数字はあくまで「現時点で把握され報告された感染者数」にほかなりません。その中には、今より予防知識が普及していなかった過去の時点に感染して、最近検査を受けたことによって把握され報告された例もあるでしょう。
というわけで、「知識の普及状況」と「現時点で把握され報告された感染者数」との間には若干のタイムラグがあります。まず、このことを確認しておきましょう。
もうひとつ確認しておきたいのは、「知れば感染しない」というもの言いがちょっとだけ不正確なことです。すんごく正確に言えば、正しい知識を持って、それに基づく行動をとれば、感染のリスクはぎりぎり最小限にとどめられる」ということでしょう。
世界的に見れば、知識があっても経済的理由でそれに基づいた行動が難しい国はたくさんあります。性行一回ごとにコンドームを使う、注射針は一回ごとに使い捨てにするか、十分な消毒の後に再使用する、輸血用の血液には全数スクリーニング検査を行う・・・これってみんな、お金がかかります。国家間の構造的な経済格差が激しい現状では、「知識はあってもお金がないせいで感染が拡大する」地域が存在するものと思われます。
一方で、「知識はあってもそれに基づいた行動をとらないために感染してしまう」ケースもあるでしょう。ぼくは六本木でフィールドワークをやったことがありますが、女の子の側からはコンドームをしては言いづらい、男の子の側は気持ちがいいから生でヤリたい、という構造が一般に存在します。風俗に通うおじさんから、「遊びにいくのにそんなヤボなもんつけないよ」と言われたこともあります。
個人的な話で恐縮ですが、ぼくの受けた性教育は「若いうちはセックスをしないもんだ」という前提に立つものでした。はっきりいって、全然役に立ちませんでしたね。こういう性教育を行っていたのが当時の「社会の性的パラダイム」の一部であり、これじゃ役に立たんと思って教習所抜きで路上に出てしまったぼくの抱えているのが、「ぼく個人の性的パラダイム」なわけです。
先に紹介した彼らが「知識に基づいた行動」をとるようになるためには、パンフレットに並んだ「知識」だけでは力不足で、彼らの、そして社会の性的パラダイムを変える努力が必要なのかもしれません。それはとてもとても大掛かりな仕事で、試行錯誤を続けつつ何年もかかるものでしょう。そっちの長期戦も進めつつ、今日から役に立つ「使える知識」の普及につとめるというのが、いま大勢の人々によって進められつつある戦略だと思います。
ぐだぐだ言ってきましたが、「正しい知識を持って、それに基づく行動をとれば、感染のリスクはぎりぎり最小限にとどめられる」というのは、本当です。知識自体が無力なわけでは、決してありません。いずれこういう行動スタイルが普及すれば、本当の新規感染者数も、把握される「見かけの新規感染者数」も減ってくるでしょう。
現に、「Saferr Sex」という考え方が普及したアメリカの男性同性愛者の間では、新規に確認される感染者数は急減しています。一方、そういう考え方がまだ普及し切っていない異性愛者の間では、確認される新規感染者が増えています。
Q2.AIDS感染者が激増しているにもかかわらず、なぜ、AIDSは伝染しにくい、安全な病気だと、ことさら強調するのか。
A.この問いには、丹波「大霊界」哲郎氏の言葉を引用させていただきましょう。
「ほんとうなんだから仕方がない」
詳しくは保健所のパンフレットや、専門化の書かれた本をご参照下さい。エイズを引き起こすヒト免疫不全ウィルス(HIV)は、極めて感染力のよわいウィルスです。日常生活の中で感染の可能性がある場面といえば、まあセックスぐらいでしょう。
それでも感染が拡大した主要な原因は、人間の大半がセックスをするからです。
もし、あなたが「ことさら強調する」と感じておられるのだとすれば、それはセックス以外の日常生活でも感染するのではないかと考える、心配性の人が少なくないからでしょう。実はこの「心配性」のほうが、HIVよりはるかに伝染力が強力で、感染者が多くて、症状も深刻だったりするんです。
Q3.なぜ、はっきりとAIDSに感染するに至った行為(売春、ホモ行為、麻薬)を指摘しないのか。なぜ、そのような危険かつ反社会的行為をやめさせるようなキャンペーンをしないのか。マスコミ界の倫理基準では売春、性倒錯、麻薬は社会的避難の対象にならないのか。
Q4.AIDS患者の、人権や被害者の側面ばかりを強調して、彼等は同じに市民社会に対する重大な加害者になり得ることは指摘しないのか、彼等に対して、なぜ感染源としての対処をしないのか。
A.まとめてお答えします。率直に言えば、そうしたアプローチはまったく役に立たないからです。
確かオセアニアのある国だったと思いますが、数年前に静脈注射による麻薬常用者の間の感染拡大が問題になったことがありました。政府は当初、麻薬撲滅運動の徹底でこの問題に対処しようと試みました。
うまくいきませんでした。当たり前です。麻薬撲滅は、歴代の政府が何年かけても達成できないテーマだったのですから。キャンペーンをぶちあげ、法律を制定し、関係者を摘発しても、麻薬の乱用は後を断ちませんでした。それはこの問題が、失業などの社会の構造問題と密接に結びついていたからです。
そこで、政府は作戦を変えました。ワゴン車を使って、街の麻薬常用者に使い捨ての注射キットを配って回ったのです。構造的問題を解決するには長い時間がかかる。今緊急に必要なことは、現実に街にいる麻薬常用者に、感染防止に役立つ実行手段を提供することだ・・・こう彼等は判断したのです。
同性間の性交渉が反社会的だとは、ぼくはぜんぜん思えません(どこが反社会的なのか、ご高説をたまわりたい気がしますが)他人がどうこういうことじゃない、という気がします。それに、異性間の性交渉でも感染の条件は整うのですから、同性間のセックスを禁じるなら異性間のセックスも禁止しないと意味がありません。いうまでもなく、これも非現実的です。
麻薬常用や売買春は、個人の行動の是非はともかく、やはり社会の「構造」が複雑にからんでいる問題だと思います。個人をいくら指摘しても、「構造」がすんなり消えてくれるわけではありません(それに、行動にはひとからとやかく言われたくない個人的必然性もあるものです)。それよりは、個人の行動の中に取り入れてもらえるような感染予防策を提案して、それをなんとか実行してもらう努力のほうが「早くよく効く」現実的方策と言えるのではないでしょうか。
HIV感染者に対する「感染源としての対処」とは、具体的にどういうことをお考えですか。みんなまとめて隔離しちゃいますか。それとも、ナチがユダヤ人にやったみたいに、バッジか腕章でもつけさせますか。
感染が確認されると隔離されちゃうんなら、僕なら絶対検査なんか行きませんね。あなたは、どうですか。国民全員に強制検査?お金かかりますよ。1億2千万人として、1回1千億円ちょっと。感染者の完全なあぶり出しのためには、最低月一回はやらないと意味ないですね。年間1兆数千億円ですか。コンドーム10億ダース、あるいはイスラエルの軍事予算のほぼ倍ですね。諸経費を含めるともっとかかるかもしれない。大蔵省がうんと言いますかね。
借りに1万人の感染者を隔離したとして、その大半はまだぴんぴんしてますよ。1万人分の労働や消費による経済効果を、日本は失うことになります。しかも餓死させるわけにはいかないでしょ。またすごくお金がかかりますね。
Q2の答えにも書いたように、セックス以外の日常生活の場面では、HIVは感染しません。したがってそうした場面では、HIV感染者は「感染源」とはなり得ません。セックスの時だって、しかるべき措置をとれば同様です。HIV感染者を「感染源」扱いするのは、こうした意味でも「非現実的」です。HIV感染者の人権が強調されるのは、それが二重の意味であらゆる個人の人権の問題だからです。
まず、一生セックスをしない人以外は、すべての個人に新規感染の可能性があること。たかがウィルスに感染したぐらいで、あなたの大事な人の、意識や感情や能力を持った具体的な一個人の人間性が踏みにじられても、あなたは平気ですか?
もう一つは、たかがウィルスぐらいで個人の人間性を簡単に踏みにじるような社会は、別の適当な理由でも簡単に個人の人間性を踏みにじるはずだ、という蓋然性。
ただ大垣市民だという理由で、おもいっきり差別されたらどうします?
あるいは、100メートルを12秒以内で走れない人間は、健康な子孫づくりのための基準に外れるから子どもを作ることを禁ずる、とか。競馬の世界では、これに近いことがありますね。
「足が遅いということは、俺という馬の中ではあまり大きな問題じゃない。俺は歌がうまいし、ルックッスもそこそこだし、放牧に出たときは一日中哲学的インスピレーションがわいてくる。隣の馬房のじいさんは、俺の歌をすごく喜んでくれる。なのに連中は、『足が遅い』というバツ印を打って、俺をクズカゴに放りこもうとしている」。馬がこう考えるかどうかはわかりませんが、人間はこう考えます。人間が足が遅いという理由で淘汰されないのは、それ以外にも才能のだしどころがいくらでもあるからです。才能の出しどころがいくらでもある、というのは、人間が授かったラッキーな贈り物です。人を差別するというのは、適当な理由で誰かを「クズカゴに放りこもうと」すること・・・つまり、その人の「贈り物」の存在を否定し、「ラッキーさ」を侮辱することにほかなりません。
侮辱された自分の「ラッキーな贈り物」は、いつかきっと別の誰かが心置きなく踏ん付けてくれるでしょう。どうせその前に、自分でさんざん踏み壊しているのですから。 現状では、HIV感染者の「贈り物」は踏まれ放題です。それはHIV感染者の責任ではなく、別のたくさんの理由で大勢の人の「贈り物」を踏みにじってきた伝統がこの社会にあるからです。あそこで踏まれているのは自分だ、あそこで踏んでいるのも自分だ・・・HIV感染者の人権が問題にされるたび、ぼくはいつもこう思います。[この文章はパソコン通信NIFTY-Serveエイズフォーラム(FAIDS)に書き込まれたものです。尾田部さんの承諾のもとに転載させていただきました]