八月五日、テレビ朝日の『朝まで生テレビ』百回記念番組で、HIV訴訟を支える会の田中志奈さんが、こう質問した。「どうして日本という国は間違いを認めない、そしてゴメンナサイと謝らない、そして責任を逃れて事実を隠し続けるような、そして真実が真実として通らない国になっちゃったのかな?」と。薬害エイズに関し、国の“加害責任”を問うたわけだ。
この質問を受けてコメンテーターの辛淑玉氏は「一つ間違えちゃいけないのは、薬害でHIVポジティブになった人とそうでない人との差があるわけではないわけですね。で、その病気にかかったすべての人たちが限られた命の中で闘っているわけですね。ちょっと薬害の問題を言うと、いつもそこだけが被害者であるという感じに取られたらいけないなぁと今思ったので」「エイズの問題というのは基本的に差別の問題だと思います」と応じた。
以後、せっかくの質問の主旨が“差別偏見”の話に歪められていくことになる。
西部邁氏も「僕はもちろん薬害という形で起こったものについては絶対厚生省許すべきではないと思う。でも同時に過剰なばかりのホモセクシャリズムあるいは麻薬なりなんなり、そういうものに対して断固たる道徳的に“こういうことをやってはいけないのだ”というそういう道徳がないから、結局は厚生省のそういう態度に対しても非常にあいまいな…」と、国の法的”責任”と国民の“道徳”をゴチャゴチャにした意見を提示していた。
さっそくこの番組を受けて産経新聞八月二一日付朝刊の『斜断機』で涼氏が「たとえば血液製剤によるエイズ患者と乱脈な性的交際で他人にも伝染させた可能性のあるエイズ患者とをまったく同じ被害者とみなせといってもむずかしい。そこにはおのずから同情の優先順位というものがあろう」(十一頁)と感想を書いていた。国の加害責任の話が差別偏見、ひいては同情の優先順位なんて話になってしまったのだ。国際エイズ会議以降、そもそも社会運動になり得ていなかったエイズの“ブーム”は、当然のように去っていった。その一方で、薬害エイズをめぐる闘いは、厚生省抗議行動に三千五百人も集まるなど、盛り上がりを見せている。この盛り上がりを「良いエイズ、悪いエイズ」という話になってしまうとして警戒する向きもあるらしい。例えば八月二九日付『熊本日日新聞』社説には「最近ではエイズ感染者を、“良いエイズ”と”悪いエイズ”に区別する傾向がでているとも言われる。前者は血友病治療に血液製剤を使って感染した人たち、後者は売買春など性道徳に反したことで患者になった人たちを指している」とある。
『SPA!』九月六日号でもHIVと人権・情報センター全国事務局長の五島真理為さんが「薬害の悲惨さだけが強調される一方で、セックス感染が“自業自得”と見られる傾向があり、エイズがGOOD AIDSとBAD AIDSに区別されつつある。そのことがエイズ問題への無知を助長し、無関心につながることがいま一番怖い」と言っている(二九頁)。
たしかに薬害エイズの被害者と他の経路での感染者との間に、“HIV感染”という意味での大きな差はない。しかし、原告らは「HIVに感染した」ということのみで訴えを起こし闘っているのではない。ましてや社会から“同情”してもらいたいわけでは決してない。国や製薬企業といった加害者たちの重過失もしくは意図的に感染させたという故意責任を問うているのである。尊厳の回復を求めて、一言の謝罪を要求しているのである。「同情」なんて言葉は、社会正義のために闘っている原告らを冒涜するものだ。
もとより、薬害エイズの被害者が感染経路で差別し自分達だけ同情されようと思っているわけでは決してない。原告らにとっては、他のHIV感染者も、同じHIV感染症と闘う闘病仲間なのである。現に東京HIV訴訟の原告の多くが治療を受けている医科研は、(当たり前だが)感染経路を問わず、広く患者に門戸が開かれている。現在、約半数が薬害の被害者で残りの半数が他の経路での感染者だという。この医科研の治療体制は、厚生省があらゆる感染者に何の手も差し伸べない中で、東京HIV訴訟の原告団・弁護団が医師たちの協力を得て作ってきたものである。
その意味で、感染経路を問わない治療体制というのは、薬害エイズの被害者たちが開始したというべきではないか。「エイズと闘う」という点では、感染経路に違いはない。けれども、「国や製薬企業と闘う」という点では、自ずと異なってくるのは考えるまでもない。
感染経路を問わない医療体制・社会福祉の充実など、同じ感染者である原告らも望んでいるところである。しかし、原告らはあくまで加害責任に基づいた“償い”を要求している立場である。加害責任に基づかないそれらの施策を原告らが言うわけにはいかない。そういった運動が他から起こってくるのをひたすら待つしかないのが実情なのだ。
ところが日本では、そういった運動はほとんど起こってこない。あるのは差別偏見の話ばかりだ。欧米では政府の無策ぶりを追及するゲイ団体等も多く、薬害の被害者らと連帯して闘っている。人権侵害という点でも、かつて日本でもエイズ予防法反対運動で一緒に闘われたように、感染経路を問わず共闘する余地は多い。
が、この十年、薬害エイズは常に一般のエイズ問題から除外されてきた。厚生省の薬害エイズ隠しのためでもあるが、訴訟という”争いごと”を避ける心理が人々の中にあったと感じている。エイズをめぐる訴訟は薬害以外にも、プライバシー侵害、不当解雇、治療忌避とあるが、いずれも「個人的問題」として関心を呼ぶことが少なかった。争いごとではなく、自分自身の意識の問題である”差別偏見”であったり“愛”の問題に帰着できる方が好まれたといっても過言ではないだろう。
「血液製剤による感染は解決済み」もしくは「係争中」として、厚生省や地方自治体主導のエイズキャンペーンからは「薬害エイズ」など存在しないかのように参加を拒否され除外されてきた。
「血友病患者は、血液製剤がなければ生きられなかったので仕方なかった」という被告(厚生省や製薬企業)の偽りの喧伝により、いわば“自業自得”で片付けられてきたのは薬害エイズの方なのだ。公衆衛生関係者は公然と「薬害エイズの被害者がすべて死ねば問題解決。ようやく難しい問題なしにエイズ対策ができる」と主張する。そして、そういった主張が、エイズ問題にかかわってきた人たちにも受け入れられて来たのではないか!?
そのような逆境の中で、ここまで薬害エイズ運動が広がりを見せてきたのは、原告団・弁護団の頑張りと、一部の支援者による草の根的な運動の成果であることは間違いない。そして、その運動は「薬害の被害者は可哀想だから同情してくれ」というものでは決してなかったはずだ。にもかかわらず、薬害の加害責任を追及する声の前に立ちはだかるのは、決まって「良いエイズ、悪いエイズの区別になる」との批判である。今まで幾度も言われてきた、この批判が、今年もまた出て来たということだろう。
一般市民の間に感染経路を問わずエイズに対する差別偏見が消えたとして、いったい何が解決するのだ? 殺人者たちが免責されたまま、次々と市民が殺されていくのは放置していていいのか? 自分たちの差別偏見さえ消えれば、国や医療機関・企業が人権侵害を繰り返してもいいのか? 誰も救済されない今のままの制度でいいのか? 敵は誰なのか? を考えて欲しい。薬害エイズの解決で今いちばん警戒しなくてはならないのは、「謝罪なき救済」である。
謝罪を第一に求めている原告らにとって、謝罪がない限り何の解決にもならないことは明らかであるが、「謝罪なき救済」が救済としても機能しないことは公害や薬害の歴史から一目瞭然である。結局それは、国の責任を免罪するのみ。免罪された国は、真に救済を行なう法的責任はなく、救済事業を骨抜きしていくのみなのである。
国の加害責任という視点からズレ「エイズの問題というのは差別の問題」「同情の優先順位」「良いエイズ悪いエイズ」なんて、これこそ厚生省が望んでいることだ。加害責任さえ認めなければ、あとはどうにでもなる。
「可哀想だから救済しましょう」とか「感染経路を問わない救済」なんて話になれば、厚生省は大喜びだろう。もちろん、自らの加害責任さえ負わない国が、本気で「感染経路を問わない救済」なんて行なうはずもない。
エイズ問題は、厚生省の言うような差別偏見で片付けられるようなものではない。これは国家的な人権侵害の問題であり、侵害を受けた者たちの尊厳の回復の問題なのだ。これは何も薬害だけではなく、すべての感染経路にあてはまる問題であるはずだ。そういった視点を持った市民運動こそが今求められているのである。
この点において、あらゆる市民や団体は連帯できるはずだ。「良いエイズ悪いエイズ」などといった戯言に惑わされている暇はない。汚染血液製剤による感染被害から十年以上が経過し、いま被害者たちはバタバタと死んでいっている。
彼らが生きているうちに加害者らに責任を認めさせなければ、私たちの社会は彼らを見殺しにしたとして永遠にその汚点をとどめることだろう。この一、二年こそが正念場である。
薬害エイズの被害者たちを見殺しにした社会が、いったい他のエイズ問題を解決できるなどということがありうるのだろうか?
私は問いたい。[草田 央]