六月二二日、厚生省健康政策局は「インフォームド・コンセントの在り方に関する検討会報告書」を公表した。この検討会は、一九九三年七月に発足し、二年間十二回にわたって行なわれたもので、エイズ診療で有名な根岸昌功医師もメンバーに加わっている。そのためか、報告書では「HIV感染症/AIDS医療」を「特別に種々の条件を考慮することが求められる例」に挙げ、「HIV感染症/AIDS医療においては、感染検査の際の任意性が重要であるとともに、他人に感染させる危険があること、発病後の予後が不良であるという特性があることから、告知することが求められるが、がんの告知と同様に告知後のサポートが必要であり、その充実が求められる」と言及している。
インフォームド・コンセント(「説明と同意」)は時代の趨勢であるが、エイズほどインフォームド・コンセントの重要性を浮き彫りにしたものはないと考える。
そこで、インフォームド・コンセントについて考えてみたい。インフォームド・コンセントとは「威嚇又は不適当な誘導なしに、患者が理解できる方法及び言語により、適当で理解できる以下の情報を患者に適切に説明した後に、自由に行なわれる同意をいう。
a 診断の評価
b 提案された治療の目的、方法、予想される期間及び期待される利益
c より押し付け的でないものを含む他の治療方法、及び
d 提案された治療で予想される苦痛又は不快、危険及び副作用」(一九九一年十二月十七日「精神病者の保護及び精神保健ケア改善のための原則」国連総会決議)である。より簡潔には「患者が自己の病状、医療行為の目的、方法、危険性、代替治療法等につき正しい説明を受け理解した上で、自主的に選択、同意、拒否できるという原則」(一九九五年十一月六日「患者の権利の確立に関する宣言」日弁連第三五回人権大会)ということになる。
インフォームド・コンセントにおける「説明」とは、単なる「ていねいな説明」とは異なり、患者が自己決定するための「説明」であることに注意しなければならない。その際の自己決定には、「無治療」も含まれると解される。そのため、危険性や代替治療に関する説明が不可欠なのである。そもそも医療とは何か。まず「科学的医学は相対的な意味では最も信頼に値する体系であること、それにもかかわらず今日なお多くの暗箱性を残していること、したがって絶えず研究的姿勢を維持しなくてはならないこと、複雑な選択を重ねて目標に確率的に接近するシステムであること、そのためには医療者と患者の密接な協力が不可欠であること」(砂原茂一著『医者と患者と病院と』岩波新書一七六頁)を踏まえなければならない。そして、そのような不完全な医学であるから「元来、医療というものは、病人の持つ自然治癒力がその力を発揮できるように、医療手段を使い分けて支援するのが、その基本的目的」(星野一正『医療の倫理』岩波新書九三頁)と考えるべきであろう。まさに患者が医療の主人公でなければならない所以である。そして、それは「医療は本来、患者に対する(to)ものではなく患者のための(for)ものでなくてはならない」(『医者と患者と病院と』一五六頁)という基本認識につながることになる。
法的には、医療行為の多くが身体に対する侵襲であり、本来ならば傷害罪に該当する違法行為である。それが合法となるのは、患者の同意があったればこそで、患者の同意が不可避であることがわかる。患者の同意を得ることが難しいケースは、あくまで例外として考慮されなければならない。インフォームド・コンセントをめぐる議論には、いくつかの対立する主張がある。
一つは、インフォームド・コンセントを「医の倫理」として捉える見方と、「患者の知る権利や自己決定権と医師の説明する義務」といった権利・義務関係で捉える見方の対立がある。前者は、法的規制ではなく倫理(モラル)問題とすることで、紛争多発による防衛的治療に陥ることを回避し、医師と患者のよりよい関係を目指そうというもので、日本医師会などが主張するものである。後者は、患者の権利を確立し、医師と患者の水平関係および患者中心の医療の確立を目指すもので、弁護士等を中心とした市民団体によって主張されているところである。
また、医師の「説明」と患者の「同意」のどちらにウエイトを置くか? という問題もある。「説明」を重視すれば、情報開示や医師の裁量権の問題となり、医師の責任問題がクローズアップされる。「同意」を重視すれば、それは医師の横暴から逃れられる「患者の自己決定権」の問題ではあるが、紛争回避の手段に矮小化して、患者の責任に転嫁されるおそれもある。
いずれも本来は、対立するものではなく、両者をともに重視するのがインフォームド・コンセントの在り方なのだろう。
例えば、アメリカ大統領委員会・生命倫理総括レポート(一九八三年)では「インフォームド・コンセントは法的義務であるばかりでなく、患者・保健医療プロフェッショナル関係における倫理的義務でもある」と記載している。先進国の中では、患者の権利を規定しない数少ない国となった日本において、医師と患者の力の差は歴然としている。法規制のみでは機能しないことは勿論であるが、モラルのみでは患者の人権を守ることは不可能だろう。ましてや臨床試験の世界共有化などを考えた場合、我が国のみが法制化を回避することは世界の趨勢から取り残される結果となるのは必至である。
「説明」と「同意」との関係では、前述のようにインフォームド・コンセントとは「同意を得るための説明」と考えるべきで、両者は不可分のものである。したがって、患者の「自己決定権」を無視した"説得"や、医師の責任回避のための"同意書"などの動きには警戒しなければならない。責任問題としては、「患者がある医療を受けることに同意して実施された医療上の責任は、患者にはなく、同意を受けた医師にあり、その医師は患者が同意した医療を行なったことを理由として患者に医療の責任を転嫁することは許されない」「患者は医師が説明した選択肢の中から選択をする権利があるのであって、説明されなかった治療法をその医師に要求しても、医師が承諾しなければ強制することはできない」(『医療の倫理』八一〜八三頁)と考えられる。では、具体的にエイズをめぐるインフォームド・コンセントについて考えてみよう。
まず、検査に際して。日本のHIV感染者の大半が無断検査により報告されたものと推測される。無断検査がインフォームド・コンセントを欠いていることは一目瞭然だろう。健康診断などでありがちな、HIVの項目に自発的にチェックするというのも、情報の提供がないという点でインフォームド・コンセントとは言えない。手術前に検査の同意書へ署名を強制するというのも、「威嚇又は不適当な誘導」ありとしてインフォームド・コンセントではない。検査を行なうにおいてするべき「説明」としては、「抗体陽性であった場合、当医院では診られません」とか「エイズ予防法にしたがって、感染経路を突き止め、多数の者にHIVを感染させるおそれがあるときは、住所・氏名を都道府県知事に通報させていただきます」といった情報を含まなければならないと考える。このような認識を得た上で検査を希望する人は少ないだろう。ここで、検査に際してインフォームド・コンセントを行なうには、「あなたが陽性であっても当院で最善の治療を行ないます」といった説明のできる医療体制の整備やプライバシー保護規定などといった環境が必要なことに気付くだろう。逆に言えば、インフォームド・コンセントによって問題を顕在化させ、従来とは次元の違う"より良き医療"が実現できる可能性があるわけだ。
告知の問題についても同じことが言える。日本では永く、エイズが致死性の疾患であるがゆえにガンと同様に告知しない方針がとられた。今は、癌と異なり二次感染の問題があるがゆえに告知が必須と考えられているが、インフォームド・コンセントとしての告知は、患者の自己決定の問題であるので、二次感染回避は本質ではない。エイズや癌のような致死性の疾患の告知は患者にショックを与え予後にも悪影響を与えることは事実だが、患者が受容し積極的に医療に参加することの方が、知らされずにいる状態よりも好ましいことも知られてきている。すなわち、問題は告知後のアフターケアの問題なのである。アフターケアが充実していない中での告知は患者に悪影響を与えるし、告知をすることによってアフターケアを充実させるという、新しい医療環境が誘発されることも期待できるのだ。慢性疾患であるHIV感染症は、日常的治療について、様々な選択肢が考えられる。AZTの投与をいつ開始するのか? カリニ肺炎の予防や治療は、ペンタミジンの吸入でやるのか? ST合剤とするのか? といった様々な選択を、それぞれについて十分な説明を受けた上で患者が決定していかなければならない。特にHIV感染症の治療は日進月歩であり、医師も積極的に情報を収集していなければ十分な説明を行なえない。患者が質問をすることによって、医師の積極性を引き出すことができるかもしれない。インフォームド・コンセントは、治る日和見感染でむざむざ亡くなっている日本の現状を変える可能性を秘 めているのだ。
HIV感染者は、臨床試験を受ける機会も多い。特効薬願望の強い感染者にとって、その誘因は強いはずだ。
その誘因を打ち消し、これが単なる人体実験であるといった冷静な判断ができるだけのインフォームド・コンセントが日本においてなされていたとは考えにくい。そもそも日本においては、臨床例も少なく、二重盲検法(ダブルブラインド)など科学的評価のできる土壌もない。欧米で認可されている薬の治験ならば被検者にもそれなりにメリットが考えられるが、そうでなければ患者にも医学にもほとんど貢献するとは思われない。
メリットがあるのは、医師と製薬企業のみであろう。そうした中で行なわれるのは、治療をないがしろにした実験でしかない。インフォームド・コンセントは、真に意義のある治験のみを推進し、実験医療ではなく患者のための医療を回復させることになるだろう。
そもそも薬害エイズなどは、インフォームド・コンセントさえ行なわれていれば、発生しなかったものである。危険性が隠され、患者を安心させるための偽りの説明がなされ、「患者に薬を選択する権利はない」などといった構図の中で発生した。本当のインフォームド・コンセントが行なわれれば、薬害の防止にも役立つはずだ。無断検査・非告知・診療拒否といったことが横行しているエイズ医療では、医師と患者の信頼関係は崩壊していると言っても過言ではないはずだ。それゆえ、インフォームド・コンセントを、単に「医師と患者のより良い関係」などという次元の話にしてはならない。医師と患者に留まらず、医療機関や行政ひいては社会という様々なレベルにおいて、まったく新しい医療を構築する突破口としなければならない。[草田 央]