臨床心理学と医学とでは人間に対する見方がずいぶんと違うようだ。患者を客体化する自然科学のアプローチだけでは患者が真に癒されることはないと思う。
私はある大学の大学院へ行った後に、別の大学の医学部を受験して入り直したいわゆる「学卒」である。大学院で「臨床心理学」という分野を専攻し、臨床医になろうと、医学部に再入学したのだが、今のところ(まだ臨床の授業も実習も始まっていないので、これから違う印象を持つかもしれないが)、心理学の中でいう「臨床」と医学の中でいう「臨床」とではその指し示すところが随分と違っているように思う。医学と心理学の対象とするところが異なるのだから当然かもしれないが、同じ人間を相手にする分野であるのに人間に対する見方やアプローチの仕方がこれほどかけ離れるものだろうかと興味深く思うことがある。まだ私は医学部で三年間弱しか学んでいないがその間に感じたことを記してみる。
この間私は、柳田邦男氏の著した「犠牲(サクリファイス)」という本を読んだ。柳田氏の息子は、二年ほど前に自殺を図り脳死状態の陥ったのだが、その息子との関わりや息子を看取ったときの様子などが書かれた、重い本である。以前から脳死の問題に関心を抱く柳田氏はこの著書の中で、脳死について考えるときに「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」という人称による死の意味の違いを捉えることが重要であると説く(下記参照)。以前から言われていることなので聞いたことのある人もいるだろう。
◎「一人称(わたし)の死」は、自分自身の死を指す。これは客観化して捉えることのできない、自分で観察してその結果を他の人に伝えることのできない死である。
◎「二人称(あなた)の死」は、つれあい・親子・兄弟姉妹・恋人の死。自分の生活・人生を共有してきたかけがえのない人を失う時、残された人は自分自身の一部を喪失したような辛さ・悲嘆を味わうことを余儀なくされる。
◎「三人称(彼・彼女・ヒト一般)の死」は、第三者の立場から冷静に見ることのできる死。事故で誰かが即死しても、アフリカで十万人が餓死しても、我々は夜眠れなくなることもないし、昨日と今日の生活が変わることもない。
脳死臨調で脳死について議論される際には、「三人称の死」の視点からのみ脳死が語られる。死を迎える本人にとっての、もしくは、かけがえのない肉親を失う人にとっての死の意味が、真に考慮されることはない(たとえ、肉親を看取った人を呼んできて話を聞いても、それはそういう家族の気持ちも聞いておこうという「外部からの観察」的な次元にとどまる)。「三人称的」な言語だけでなく「二人称的」な言語によって脳死の問題を語らなければ、脳死の問題は解決しない、という趣旨のことを柳田氏は述べている。
この本では脳死に対する時の「人称」による意味の違いが取り上げられたのだが、このことは人間に対する見方やアプローチの仕方全般について当てはまることではないか、と私は思う。
医学においては(おそらく科学一般においても)、対象を捉えるときには「三人称的」な捉え方をする。対象を観察主体と切り離されたものとして、客観化して、対象に生じる現象の原因(諸要因)を同定しようとする。さらに、その原因(諸要因)に操作を加え、対象に望ましい変化を起こそうとする。医学は自然科学であり、その方法論を踏襲しているのだから、これは当然のことかもしれない。
我々は、六年間の医学教育の中で(臨床の授業や実習になれば多少は変わるのだろうか?)膨大な量の「三人称的」な知識を詰め込まれる。細胞膜レセプターの分子構造や、遺伝情報の転写・修復の機序等、自然科学的手法によって際限なく明らかになる分子生物学の知見が、授業時間少なしと盛り込まれる。無論、そのような知識は非常に重要である。しかし、一個の統一体としての人間の存在は、今受けている授業の膨大な知識の中からは見えてこない。医学教育の中で、我々は、「三人称的」な見方が、医師という専門家として持つべき当たり前の見方であるかのように覚え込む。そして、そのような教育しか受けてこなかった医学生のうち、少なからぬ数の者は、臨床の場に入った後も、「三人称的」な立場からしか、患者と関わることができない。原因と結果の法則によって説明され得る客体として、操作可能な対象として、生物学的諸要素だけから成る構成体として、人間をとらえる視点を固守しようとする。
臨床心理学という分野の中では、専門家として、患者と「二人称的」に関わることを学ぶ(それは、単に「仲良し」になるということではない)。「二人称的」に関わることによって、種々の心理的問題を訴える(時には身体的症状を訴える)患者に望ましい変化が生じるからである。その際には、患者を自分と切り離した対象として、客観化して、操作しようとする方法論は、戒められる(正確には「そのような方法論のみに固執することは戒められる」といったほうがよいが)。操作しようとするとそのような望ましい変化が消失するからである。
「三人称的」な関わりと「二人称的」な関わりとの違いを示す例を一つ挙げよう。
例えば、告知を受けている末期の肺癌の患者が、「なぜ私は死ぬのか」と、医師に問うたとする。「三人称的」な関わりから、この問いに答えるとすれば、「悪性腫瘍が増殖し肺機能の不全が起こるため…」とか「過去二十年間の過度の喫煙のため…」という答えになるだろうか。もちろん、真剣に問う患者を前にしてこのような答えをする医師が実際にいるとは思わないが自然科学による解答は、これ以上の関わりを患者と持つことを可能にしない。この患者の「なぜ」は別の次元にあり、「三人称的」な解答は患者に何の「意味」ももたらさない。
「二人称的」な関わりをもってこの問いに答えようとすれば、どうなるだろうか。なぜ死ぬのかと問われて、その問いの文字どおりの意味を表面的になぞって、直接、言語的に答えようとしても、それは、問いを発することによって患者が表現しようとしているものに対して、応えることにはならないだろう。その問いが包含する重みに思い至れば、軽々しく答えようとすることはできない。臨床心理学の専門家なら、なぜ死ぬのかという問いを発せざるをえない主体に、どうにかして応えたいという気持ちをもって、その主体のいる次元に積極的に関わっていこうとする。どうにかして患者のいる次元と同じレベルの次元に自分も至ろうとして、主体が語るところ(言語的にだけでなく)を全身をむけて聞こうとする。そうすることによって、「自分の言うことが聞かれている」「自分の存在が受けとめられている」「自分は『切り離されて』いない」と、もし少しでも患者が感じられれば、「なぜ」という問いの性質は少しずつ変わっていくかもしれない。患者が問いを発することによって求めていたものを探すための場が、そこに生まれてくるかもしれない。そのような関わりの中で、だんだんと患者自身が、自分にとっておさまりがつくような意味付けを、自分の生や死に対して見つけていくかもしれない。それは、「三人称的」な言い方をすれば、患者にとって「死を受容するプロセス」を歩むための場が提供された、ということになろうか。
もちろん精神科医でもなければ、医師がここまでする必要はないし、することもできないのかもしれない。むしろ、「悪性腫瘍が増殖し…」という説明を提供するのが医師の専門性であり、期待される役割であるのかもしれない。しかしやはり、臨床に携わる限り、生きた人間を相手にする限り、「三人称的」な見方やアプローチの仕方しかできないのでは、全く不十分であることは間違いない。ここで例に挙げた終末期の医療だけでなく、様々な臨床の場面で「二人称的」な関わりが必要とされることがあるだろう。そしてそれは、個々人の良識や良心にまかされるものではなく、全ての臨床医に必須の一つの専門性として考えるべきものである。[嶋田俊也]参考文献
▼犠牲(サクリファイス)〜わが息子・脳死の11日、文芸春秋、柳田邦男
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▼ユング心理学入門、培風館、河合隼雄