1.はじめに
わが国における感染症対策は明治30年(一八九七年)に制定された伝染病予防法によって、体系づけられている。同法は、その後いくつかの変遷を経たが、今日まで抜本的な改正には至っていない。このことは、この法律が数多くの問題点を内包しているにせよ、それなりに整備された体系を有していたからに他ならない。
この間、我が国においては、強力な防疫対策の実施、栄養状態の改善、所得水準の向上、生活衛生環境の改善等により、寄生虫疾患をはじめとする各種の感染症は激減し、世界でも類を見ない衛生的な社会環境を保持するに至っている。また、抗生物質、ワクチン等の開発をはじめとする医療・予防技術の進歩により、感染症は今や克服可能一歩手前の段階にまで達している。
ところで、今日の国際社会はボーダーレス化、緊密化の一途をたどり、年間数千万人の人々がわが国内外を往来するようになっている。また、その移動速度も航空機の発達により、100年前とは比べものにならないほど短縮化している。こうした急速な国際化の進展は、今日の我が国には既に存在しなくなった感染症が輸入感染症として、再び我が国に侵入する事態をも招くようになった。
しかし、たとえ、こうした輸入感染症の危険が存在するとしても、国際交流と相互依存は我が国の存在にとって必要不可欠なものであり、今後とも世界各地との人的、物的交流を絶やすことなく、活発に行い続ける必要がある。
幸いなことに、こうした輸入感染症は散発的なものに留まり、これまでに我が国において、大きな流行を引き起こしたものはない。しかし、一世紀近く前の伝染病予防法制定当時には予想だにしなかった大量高速輸送が国際的にも一般化するに及び、従来とは異なる視点での感染症対策の必要性が高まりつつある。
また、説明と同意、選択と納得などといわれるインフォームド・コンセントの考え方の普及、個々人の自由意志と責任に立脚した権利意識の向上等の時代背景の変化に対応して、平成6年には予防接種法が改正され、従来、社会防衛の見地から国民に義務づけられていた予防接種が努力義務となった。このことは感染症対策における予防接種の役割が終わったことを意味するものではなく、規制緩和の趨勢の中、行政施策としての予防接種を推進し、定着させていくための手段を「義務だから」接種を受けるというのではなく、予防接種の意義・必要性を十分広報した上で、自発的・積極的に制度に参画してもらうという今日的なものに変更したものにすぎないものである。
2.感染症の3要因
感染症は、病原体、宿主、環境の3要因により成立し、それらの相互作用によって、その流行が左右される。
病原体要因としては、病原体自身の毒性と伝播様式が問題となり、人、動物、貨物の移動に伴う国際的な流行の拡がりがしばしば警戒されるが、実際に国境を越えて流行することは希である。これは、環境要因の差異が流行の拡大に際して、一種の障壁として作用しているためと思われる。
宿主要因としては、免疫機能を主体とした感染防御機構が問題となる。個人の免疫機能のレベルは栄養状態をはじめとして、種々の要因により変化し、その人自身の感染あるいは発病の確率を左右する。さらに、それだけでなく、ある集団における免疫機能の水準は、その集団における感染症の流行をも左右する。
環境要因には、自然環境と社会環境の両面が存在するが、いずれも人が病原体に接触する確率を左右するものである。
3.感染症対策の基本
感染症対策の基本は、病原体、宿主、環境の3要因に対応して、病原体の監視(感染源の把握)、抵抗力の強化(免疫能の獲得)、感染経路の遮断(感染の防御)の3つに整理することができる。
まず、病原体の監視(感染源の把握)に関しては、平常時から感染症の動向を常に監視していることが重要である。こうした監視の重要性について、一般の関心のみならず行政、特に財政当局の関心が低いことは極めて憂慮すべきことである。
近年の国際交流の進展は、世界各地に存在する各種の感染症が我が国に持ち込まれる可能性を常に内在している。こうした感染症が実際に我が国に侵入することは少なく、さらに我が国で流行することは希であると考えられるが、万が一の事態を想定して、普段から情報の収集と世界的な規模での感染症の発生状況の監視を行って、非常時にパニックに陥ることがないように備えておくことが重要である。
次に抵抗力の強化に関しては、ワクチン摂取、薬剤の予防内服等だけでなく、栄養状態の改善を主とする生活水準全般の向上も重要である。
例えば、今日、日本人の多くは飽食の時代を迎え、高カロリー食による肥満に悩むようになっている。かっての日本人は、低カロリー・低栄養食がもたらす、慢性的な免疫機能の低下状態にあったと考えられる。これは、結核患者のイメージとしては、痩身蒼白な青年患者というイメージがあったことからも分かるし、一時、結核の治療として、真剣に高カロリー食やバター等の高脂肪食品の摂取が考えられたことからも分かる。
3番目に感染経路の遮断については、従来、患者を感染源と捉え、患者を隔離することによって、感染経路を遮断しようという試みが主体であったが、こうした古典的な隔離は、今日においては、もはや、その意義を失っている。これは、一つには有効な抗生物質、ワクチンが開発され、治癒可能な感染症が増加したこと、もう一つは生活水準、衛生環境の向上により、宿主側の抵抗力が強化されるとともに、感染経路の遮断が容易となったことが主たる要因である。
また、多くの感染症は、一定の潜伏期を経て、発症するが、この潜伏期の期間中であっても、他者への感染源となり得る。患者のみを隔離して、感染経路が遮断されたと考えるのは、この点からも不合理であり、感染者の存在を想定した感染経路の遮断が常日頃から重要である。
4.古典的な隔離(感染源としての患者の隔離)
古典的な隔離は、今日の我が国における医学水準をもってすれば、もはや時代錯誤の措置である。もちろん、感染防御措置の重要性は、今日でも極めて重要であり、また、患者との不必要な接触は避けるべきである。しかし、必要以上に接触を制限する必要は全くなく、ましてや患者を一定の施設に収容する必要もない。
例えば、中年太りや贅肉を気にせざる得ないような、今日の一般的な青壮年日本人においては、濃密な結核菌に頻繁に曝されることがないかぎり、まず感染や発病は起こらないと考えて良く、結核患者を特定の施設に収容し、社会から隔離することによって、他者への感染経路を遮断する必要は極めて乏しい。たとえ、感染力の強い結核と言えども、今日の我が国においては、もはや、そう簡単に感染、発病するものではないのである。これは、重症結核患者が多数収容されている結核病院等においても、結核に感染するのは患者と濃厚に接触している医師と看護婦に限られ、受付や会計の事務職員、病室の清掃職員、給食の調理職員等の通常の接触程度しかしていないその他の職員には結核の感染・発病が生じていないことからも明らかである。
ウイルス性出血熱にしても、感染すれば、重篤であるし、特に有効な治療法もないのが現状であるが、治療法がないという点では、肝炎感染時に1%程度の確率で発生し、致死率の高い劇症肝炎も同様である。ウイルス性出血熱には数多くの種類があり、感染経路も一様ではないが、一般に症状が重篤なものほど感染しにくいと言える。最も感染しやすいウイルス性出血熱は、東南アジアを中心に熱帯地域で流行し、蚊に吸血されることによって感染するデング出血熱であろうが、これは感染しても大抵、比較的軽症のデング熱として治癒してしまい、出血熱にまで至ることは少ない。
一方、ウイルス性出血熱の中で、最も重篤と考えられるのは、エボラ出血熱であろうが、これは血液を介した直接的な接触によってのみ感染する。通常の生活において生じるような日常的な接触によって、感染が起こることは考えがたいばかりか、手袋、マスク、ガウン等の比較的簡単な感染防御措置によって、十分に感染経路を遮断することが可能である。実際、これまでに知られている患者は、手袋、マスク、ガウン等の感染防御措置を何ら講ぜずに、エボラ出血熱患者の診療を行っていた医師、看護婦等の医療従事者と、エボラ出血熱患者に用いた注射器等を滅菌消毒せずに再使用していた医療機関において、注射等の診療を受けたマラリアその他の病気の患者、エボラ出血熱患者の身辺の世話、特に下血や吐血の処理を手袋、マスク、ガウン等の感染防御措置を何ら講ぜずに行っていた家族や修道女等の介護者に限られ、たとえ患者と同居していても、患者の世話をすることがなかった小児等は感染を免れている。
5.病院内での感染経路の遮断(個室への収容)
これまで、感染経路の遮断としては、感染症患者の社会からの隔離を意図し、患者を伝染病院等へ収容することで足りると考え、個室に収容する必要はないとする風潮が支配的であった。しかし、そもそも感染症患者を他の感染症患者と同室に収容することは、好ましいことではない。
かって、ジフテリアの真性患者と疑似患者を同室に収容したために、ジフテリアではない他の呼吸器感染症であった疑似患者が重ねてジフテリアにも感染してしまったという事例も伝えられている。
また、小児科のように感染症の多い診療科では、ムンプス(おたふくかぜ)で入院した患児がロタウイルスやインフルエンザウイルスに感染し、時に死亡するというようなことも伝えられている。
さらに、たとえ同じ病名の感染症であっても、ウイルスや細菌の微妙な抗原性の差異、個々の患者の感受性の差異により、重複して感染する危険性も存在する。
今日においては、感染症患者は従来の隔離とは全く異なる意味で、個室に収容し、他の患者からの再感染、他の患者への感染を防ぐべきである。これは外来診療においても同様であり、待合室等における患者から他の患者への感染を防止することも今後は重要となるが、こうした医療機関内感染(院内感染)の防止については、別の機会に譲ることとする。
なお、感染者から、他の入院患者等への感染を防ぐことの重要性は言うまでもないことであるが、バス・トイレ付きの個室病床を確保し、そこに感染者を収容することによって達成されるので、隔離施設、隔離病舎等を特別に設ける意味はない。
6.患者治療のための個室への収容
感染経路の遮断として、必要以上に患者との接触を制限する必要はなく、ましてや患者を一定の施設に収容する必要もない。しかし、患者の症状に応じて、最善の治療を行うために、特殊病棟等に収容することは、当然あり得ることであり、これを隔離と混同してはならない。治療のための個室への収容と他者への感染防止のための隔離とは厳密に区別されなくてはならない。
例えば、日本脳炎のようなに時に重篤となる感染症については、個室に収容し、濃厚な医療を施す必要のあることも多いが、これは治療に便宜を図るために個室に収容するのであって、感染源として患者を隔離するものではない。重篤な脳神経症状を呈した日本脳炎患者を個室に収容し、手厚い看護と高度の医療を行うことは、患者の治療の観点からはきわめて有意義である。しかし、日本脳炎ウイルスがコガタアカイエカを介してブタから感染することが明らかとなった今日においては、他者への感染防止を目的として、日本脳炎患者を隔離することは、ハンセン病患者を隔離することと同様に全く有害無益なことである。
7.免疫不全の患者を感染から守るための隔離
現在、医学的な見地から、他者への感染防止のために社会からの隔離が必要と考えられる疾患は存在しない。現在の隔離は、患者の隔離ではなく、感受性を持つ者を感染源から隔離することに限られる。
例えば、重症のエイズ患者を個室に収容して隔離するのは、免疫機能が高度に低下したエイズ患者にとっては、ごく普通の一般人でさえも、エイズ患者に対する致命的な日和見感染症の感染源となるからであって、エイズ患者が一般人への感染源となるからではない。同様に、白血病、末期がん、先天性疾患等によりの免疫機能の低下を来した患者についても、感染症患者に限らず、一般の健常者からも隔離することが患者自身のための必要となる。
8.教育と研究の推進
感染症の患者・感染者あるいは病原体の我が国への侵入を検疫により阻止しようという従来のいわゆる水際での侵入防止は、国際社会の一員に組み込まれた今日の我が国においては、もはや不可能であることを前提として、感染症対策を考えるべきである。これまで、ともすれば、検疫の強化等による侵入阻止ばかりに目が向けられ、侵入後の国内における対策、すなわち拡散防止が疎かにされる嫌いがあった。これは、我が国における感染症に関する臨床、疫学両面での研究の停滞・遅延、医学教育あるいは厚生行政における感染症の比重の低下と相まって、感染症対策を不十分なものとしている。
伝染病予防法及びこれに基づく命令については、医学等の科学的知見に基づく技術規定が主体を成しており、すべて科学的な根拠に基づき定められるべきものである。
しかし、伝染病の流行は突発的な事態であり、刻一刻と変化する状況に応じて、臨機応変の措置が要求されるものである。伝染病予防法とその関連法規は、一般的な対応を示したものに過ぎず、常に妥当なものであるとは、限らないことを銘記する必要がある。各種法規、通達の各規定の科学的な根拠と目的を的確に把握した上で、これら伝染病予防上必要な措置の実際の運用に当たらなければならない。
さらに、これらの措置の遂行に当たる者についても、当然科学的な知識が要求されるものであり、消毒方法、清潔方法、鼠族昆虫類の駆除、伝染病患者及び患者と疑われる者に対する措置、収容、予防接種、その他伝染病予防のための措置に関する教育は極めて重要である。
特に、予防知識の普及啓発とその実践に勝る感染症予防対策は存在しないことを考え併せれば、専門教育のみならず一般的な普及啓発も重要であり、普及啓発に従事する行政職員に対する研修も重要である。
また、監視の強化と感染源の把握のためには、感染症対策専門機関としての国立予防衛生研究所の機能をさらに充実させ、行政的な権限・機能も併せ持つよう拡張する必要があるだけでなく、患者発生時に備えて、正確かつ迅速な診断のできる専門家の養成とそのための専門教育機関としての国立公衆衛生院の機能強化が重要である。
9.まとめ
今後、我が国において講じるべき感染症対策について、さらに議論を深め、公衆衛生的な対応を重視つつ、患者の人権とプライバシーを尊重して、制度的な問題についても検討を重ねる必要がある。その上で、特に病原体の監視の強化と、教育と研究の推進は早急に対策を実施すべき課題であると考える。
[福田光]
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