マニラで97年10月に第14回アジア太平洋地域エイズ会議報告が開催されました。今回の会議のテーマは「HIV/AIDSに立ち向かう国境を越えたパートナーシップ」。65カ国から約三千人が参加しました。
25日の開会式ではラモス大統領が基調講演を行い、エイズ対策がアジアの将来を左右する重要な問題であると述べ、この問題から目をそむければいずれ高価な代償を支払わねばならなくなると警笛を鳴らしていました。
会議の主なトピックをご報告します。
■マニラはタクシーの窓からちょっと探検
マニラで十月に開催された第四回アジア太平洋エイズ会議に行って来ました。
時は十月二十五日。飛行機から降りると、それは南国特有の青空が広がり、その空のもとでまずはゆったりと深呼吸した…と書きたいところだが、実はマニラに到着したのは夜中の十時。荷物が全然出てこなくていらいらするものの「ここはマニラ、フィリピンだ。ゆったりのんびり当たり前」と心に言い聞かせて、なんとか落ちつく。
さて、マニラの空港を出たらすぐに会議の案内人が立っていた。
自分の名前を確認し「迎えのバスでも来ているのかな」と勝手に思っていたら、そんなに甘いことは無かった。すぐ近くのタクシークーポン売り場でお金を払い、会議会場に隣接する「ウエスティンプラザホテル」と行き先を運転手に告げた。
途中、しばしばタガログ語で話しかけられたのはなぜだろう、私は日本人に見えないでジモピーに見えるのだろうか、とちょっと考え込みながらホテルに向かう。最初の十分ぐらいはとてもスムーズに車は走ったのだが、あとは渋滞につぐ渋滞。英語でいう「バンパー・ツウ・バンパー・トラフィック」というのはこういうことを言うのだろう、とボーッと考えているうちにも車は一メートル一分程度の進行速度で進む。ようやくホテルに着いたのは夜中十二時すぎ、ということで、初日については何もご報告できません。
■展示ホールは情報の宝庫
さて、ゆったりと眠る暇もなく翌朝から全開で会議に力を注ぐことにした。
まずは展示ホール。正確には「ホール」ではなく、通路が「展示ホール」のかわりになっているという感じではあった。
早くも日本語にノスタルジックな感覚を感じて、エイズ予防財団のブースへ。ありましたありました。見たことがあるような人がちらほら。挨拶を一通りすませたものの、「いけない、ここはフィリピンだ、日本人と会っただけで満足してはいけない」
ということで、いくつかセッションに出ようとするものの、展示ホールが結構面白い。というのも、いろいろの国からボランティア団体がブースを出展しているし、それ以外に数多くの製薬会社がブースを出し、自分の会社が出している薬について詳しい情報を提供してくれている。
展示ホールはちょっとした情報の宝庫で、ここを散策するだけでも有意義に感じられた。
■「日本の血友病とHIV」
初日に日本のエイズ治療・研究開発センターからの発表があった。題目は「血友病とHIV」。なぜこの題目でマニラまで来て発表しなければならなかったのかはちょっと謎ではあった。
このセッションは実は「血液とHIV」というセッション。アジアではさまざまな感染症などが輸血で人からヒトにうつっているという事実がある。ミャンマーでもこれに対してはどのように対処していいのかわからないほど大きな問題になっているという。こういった発表がされている中での発表となった。
発表の中では「日本の血友病の人達がなぜHIVに感染してしまったか」ということが詳細に年表形式のスライドを使って説明された。米国と日本の血液需要供給関係の差異と、そこから生まれた製剤の米国から日本への流れも一枚のスライドを使って説明している。
その後少々唐突な感じでエイズ治療・研究開発センターの存在意義が高らかにアピールされた。
感想を言えば、血友病の人達が「感染させられた」という事実を確かに言ってはいるのだが、結局「輸血はリスキー」というこのセッション全体の流れの中でその被害性が見事なまでに打ち消されてしまい、なんとなくただの輸血による感染という誤解を生んでしまったような気がした。実際輸血における問題点などもこの発表の中では述べられたりしていて、セッションの性格の問題とは言え、ちょっと残念だったと言えよう。
■HIV感染を意識していてもコンドームなし
さて、この日の午後には「男性とセックスする男性(MSM)とHIV」というセッションに行った。
ポイントは「ゲイ」と言いきらない点。「ゲイ」というアイデンティティを持たなくても、男性同士でセックスすることは当然ありうるという発想なのだろう。ちょっと私にはなじめない部分であって「ゲイならゲイと言えばいいじゃない」と言いたいところもある。しかしセッションが終わるころには、MSMというのは実は結構アジア的発想から必然的に生まれているのではないか、とも感じたりはした。
はじめはフィリピンはマニラからの発表。ゲイのハッテン場となっているマニラの映画館、十二館でのアウトリーチ活動を通じて得た八五五人を対象とした調査結果が挙げられていた。これによれば、対象者の八二%は独身、一二%は既婚であり、全体の五十%はコンドームを使わないという。
内容も面白かったが、ハッテン場の映画館の写真とかが次々出てくるので、それ自体が非常に面白かった。そもそもこのセッションはゲイの人が多いため、それなりのノリノリの雰囲気になっており、そんな流れの中で盛り上がっていたと言えよう。
ここではぷれいす東京の砂川秀樹氏が日本のパソコン通信を使った調査結果も報告されていた。
これによれば、セックスの相手がHIV感染者であるかもしれないという意識は二人のうちの一人は持っているものの、コンドームの使用となると挿入するとき、挿入されるとき必ずコンドームを使用する人はどちらも五分の一しかいないという。つまり、感染の可能性を知っていても使わないというわけだ。コンドームに対するネガティブなイメージ、特定のパートナーとはコンドームは不要という間違った考え、コンドームの使用を提案することの困難さがその要因として挙げられていた。
■お薬の話が盛り上がっていた
この夜にはロシュ社が主催するシンポジウムがあった。本来はサキナビルとddCの宣伝という意味があるシンポジウムで、サキナビルとddCの商品名「インビラーゼ/ハイビッド」とあちこちに掲げてある。でも、シンポジストの先生方はそんなことをあまり気にせずに抗HIV薬の使い方とかを話すから、結構参考になるものである。
実際、チェンマイで開かれた前回の会議ではあまり抗HIV薬の話なんぞ出てこなかった。むしろ、ボランティア団体はどう活動したらいいのか、予防はどうするか、結核が多いなどの点に重点がおかれていて、免疫力の低下をどう予防したらいいのかという具体的治療の話は非常に少なかった。
ところが、やはり世界の潮流は「治療は進んでいる!」というところにありそう。このシンポジウムでも、いつ治療をはじめればいいのか、どの薬を選んだらいいのかというような基礎的とも思えるトピックが連なり、またそういった話をそれは真剣に参加者は聞いていた。
例えば、感染して間もない時にもできるだけ強い薬の組み合わせを使ったほうがいいこと、3TC/ネビラピンのように薬の組み合わせによっては効果が望めないものもあるということが述べられた。そして現在入手が可能となってきている薬剤の一覧が提示された。
1997年10月現在入手が可能となってきている薬
■逆転写酵素阻害剤(6種類)
AZT、ddI、ddC、d4T、3TC、アバカビル■プロテアーゼ阻害剤(5種類)
サキナビル、リトナビル、インジナビル、ネルフィナビル、GW141(実際には他にもKVX478、KNI272、ABT387など)■非核酸系逆転写酵素阻害剤(4種類)
ネビラピン、デラビルジン、ラブロイド、DMP266■ヌクレオタイド系(2種類)
アデフォビル、PMPA
必死に書き留めたそれをちょっとマニアックに紹介すれば、逆転写酵素阻害剤がAZT、ddI、ddC、d4T、3TC、アバカビルの六種類、プロテアーゼ阻害剤がサキナビル、リトナビル、インジナビル、ネルフィナビル、GW141の五種類(実際には他にもKVX478、KNI272、ABT387などが候補に挙がっているはず)、非核酸系逆転写酵素阻害剤がネビラピン、デラビルジン、ラブロイド、DMP266の四種類、ヌクレオタイド系という新しい種類の薬がアデフォビル、PMPAと二種類挙げられていた。
こんなにたくさんの数の薬が近々揃うのかと思うと嬉しいかぎり。そういえばこのDAVIDという講師は以前のチェンマイでも現在入手可能な薬ということでリストを提示していた。
あの時には「いつこんなに薬が手に入るようになるのだろう、現実実がないなあ」と思っていたが、今となれば本当に現実になっている。おそらく二年もたてば、今回示された薬も自由に入手できる環境が整うのだろう。
■タイでは不思議な治験も
さて、翌日からの話も詳しくお伝えしたいが、とにかく盛り沢山。誌面も残り少なくなってきたので、他にちょっと気になる話をいくつか紹介しよう。
グラクソウエルカム社は、朝の六時からという驚異的な時間にブレックファスト・セッションを開いていた。何となく早く起きてしまったは自分はこれに出席、無料の朝食を食べながら、ボーッと聞いていたが、タイではオーストラリアとオランダとの協力で治験が行なわれているというのが興味深かった。
しかもやっている治験というのがd4T/ddIというのとAZT/3TC/ddIということで、ちょっと不思議。
でもタイでは昨年までAZTやddIは無料で配布していたのだそう。今年はお金がなくなったので駄目になったというが。
日本からはエイズ予防財団の山形先生も、予防財団がこれまでしてきた活動を中心に発表されていた。
■この会議が残したものは何?
最終日には、プレナリーセッションで、やはり抗HIV薬の使い方というものを説明された後、ジュネーブで九八年に開かれる国際エイズ会議の宣伝が行なわれていた。抄録の締切りは確か二月。国際エイズ会議のブースも出展されていて、リーフレットが置いてあった。
最後の講師は、この会議がいったい何を残していったのか、皆が何を感じて、何を実行していくのか、集めた情報を本当に役立てるのか、来て欲しい人に本当に来てもらえたのか、などというシビアな話をし、かなり受けていた。私も、この会議に出席したことが私の人生において、またこれからエイズと関わっていく中でどう位置づけられるのだろうと考えさせられる時間をもてたようだ。
さて、この後は閉会式とフェアウエルパーティ。きちんとフルコースの食事が出たらしいが、私は疲れて出席できなかった。ちょっと残念。
とにかく、盛り沢山の内容のこの会議。しかし基本は研究発表というところよりはむしろネットワークの構築にあるように思え、アジア中の人々がHIVを中心に集まったという感じと言えるだろう。
今回の会議のテーマもパートナーシップ。それぞれの出席者が一人でも多くの知り合いを作り、その知り合いの輪が問題解決の手掛かりとなることで会議の大きな目的は果たせたのではないだろうか。英語があまりわからない私にとっては少々きつい目的ではあったが、本当に行けてよかったと思える会議であった。