期待感ばかりが膨らみ、正確な情報がなかなか伝わってこない「ミドリ十字の遺伝子導入実験」。ここで今までの経緯を整理し、詳しく論評してみたい。
遺伝子治療は21世紀には大いに期待できる治療法であることは間違いない。しかし、その実用化にはまだ半世紀ほどの時間がかかることも事実なのだ。
■厚生省、「安全性に疑義」と無期延期を指示
一九九七年五月二六日、中央薬事審議会の遺伝子治療用医薬品調査会は、ミドリ十字社が申請していた遺伝子治療研究用のベクター(HIV-IT(V))を承認した。
ベクターとは、治療用遺伝子を体内に運び込む役目を果たすものだ。次いで同月三〇日、厚生省と文部省は、熊本大学付属病院から申請のあった、このベクターを用いたヒトでの臨床試験を認める方針を決定した。
薬事法に基づく手続きにより、ミドリ十字は六月一七日、治験計画届け書を厚生省に提出。翌一八日、ミドリ十字は熊本大病院に治験依頼の申し入れを行ない、同病院は治験実施を検討する審査委員会にて検討を行なっていた。ここでの承認を得て、ミドリ十字と治験契約を正式に結び、早ければ七月末、遅くとも八月には臨床試験が実施されると報じられていた。
■増殖性ウイルス(RCR)が混入する可能性
ところが六月二七日、厚生省は「安全性に疑義が生じた」として五月三〇日付けの決定を保留、実施の無期延期をミドリ十字に指示した。ベクターに増殖性ウイルス(RCR)が混入する可能性を、ミドリ十字が一九日になって厚生省に通知してきたのを受けてのものである。
ミドリ十字は製造元のカイロン社から、現在のロットに関しては五月二九日に、以前のロットに関しては一九九六年六月に報告を受けていたが、それに言及しないまま六月一七日の治験計画届出をしていた。今回の延期は、厚生省がミドリ十字に不信感を表明した形となった。即座に『HIVと生存を考える会』と『HIVと人権を考える会・北九州』は連名で熊本大学病院に治験受託の返上を申し入れた。
ベクターには、ネズミの白血病ウイルスを増殖しないように改造して用いている。増殖が可能だと、白血病ウイルスによる病気を起こす可能性がある。サルでの実験では、発ガン性が認められているという。ベクターの安全性は、RCRが存在しないことが、最大かつ基本的な条件だと言えよう。しかしながら、通常の検査では発見できなかったRCRが存在することは、一九九三年のアメリカの国立衛生研究所(NIH)の諮問委員会でも指摘されていたことである。
ミドリ十字の主張するように、RCRが存在しないロットを使えばいい問題で、いわば製造工程での歩留まりが想像以上に低いという話でしかないのかもしれない。しかしながら「今まで一度もRCRは検出されていない」とのミドリ十字の主張は誤りだったわけで、虚偽報告の社風によるものなのか、はたまた翻訳などの学術研究能力の欠如によるものなのか。いずれにしても、こうしたミドリ十字に、HIV感染症に対する我が国初の遺伝子治療を任せることに危機感を抱くのは当然と言えよう。
■「基礎研究に戻るべき」
またアメリカにおいても、「ヒトでの臨床試験は時宜尚早であった。基礎研究に戻るべきだ」との論調が台頭しているため、延期の決定がなされたというのが本当のところではないだろうか。
製造元のカイロン社は、七月の『Human Gene Therapy』誌に「増殖性ウイルスに関するPCR及びエライザ検査の評価」と題する研究を発表し、ベクターの安全性を再び立証してきている。しかしながら、その後、日本での臨床試験に関する動静は聞こえてこない。
遺伝子治療に関しては、ニューズレター十二号で「特効薬願望を捨てよ」と題して既に言及してある。めずらしく賛否両論(多くは「せっかく期待しているのにヒドイ」といったものであったそうだ)の反響が寄せられたと聞く。医療関係者からは「よくぞ言ってくれた」とのお誉めの言葉もあったそうだが、その後、エイズにかかわる何人かの医療関係者と話してみても、正確な情報が伝わっていないことに驚かされた(それだけ彼らが遺伝子治療に期待していない、関心がないことへの表われでもあると思う)。そこで今回は、詳しく論評してみたい。
■遺伝子治療に関する今までの経緯
そもそも、このHIV-IT(V)はヴァイアジーン社が開発し、一九九三年からアメリカで三次に分けて計六六人のHIV感染者に対し(比較のための偽薬投与を含む)第一相臨床試験が行なわれたものである。HIV感染症に対する遺伝子治療の、ヒトを対象にした初めての臨床試験であった。
被験者は、未発症で抗HIV剤の投与されていない五〇〇以上のCD4値を持つ者に限定された。一九九四年に横浜で行なわれた国際エイズ会議は、期待を抱かせるような研究発表がなかったため失望感に満ちたものであった。それゆえ漢方治療と遺伝子治療が、比較的注目を集める結果となっていた。熊本大学の高月教授からも発表があり、この年に学内の倫理委員会に申請されたという。
その後、第一相臨床試験の結果が出ていないにもかかわらず、アクト・アップらの要求に応える形で、一九九四年十二月から第二相臨床試験が開始された。被験者は、二〇〇以上のCD4値に拡大され、抗HIV剤の投与もベクター投与の前後各三日間を除き許可され、一一〇名のHIV感染者が参加している。
ミドリ十字はヴァイアジーン社と業務提携を行なっていたと言われるが、一九九五年にヴァイアジーン社がカイロン社に吸収合併され、業務提携はカイロン社に引き継がれた。
我が国における臨床試験に関するミドリ十字からの申請も、この年になされている。一九九七年二月、アメリカでの第二相臨床試験に、プロテアーゼ阻害剤の投与を受けている人にまで参加を拡大し、新たに二〇〇人の被験者を追加することが発表された。ミドリ十字は、この臨床試験の拡大に際し、四百万ドルの資金を投入し、世界的な販売権を獲得したとされる。
■中間報告で有効性の確認できず、治験は延期
一方、一九九五年に発表された第一相・第二相臨床試験の中間報告では信頼できる明確な有効性が示せず、一九九七年一月から開始が予定されていた第三相試験は、最終報告が出される一九九八年まで延期されることになった。そのため、大規模な臨床試験となる第三相試験のために用意した、新工場による大量生産に向いた新たな製造工程での製剤が、初めて熊本大病院での臨床試験で用いられるものとなった。
■「熊大の治験」ではなく「ミドリ十字の治験」
以上が今までの経緯であるが、ここで世間に蔓延している基本的な誤解をといておきたい。
まず、この臨床試験は「熊大の遺伝子治療」と称されることが多いが、これは不適切ではないかと思うのだ。少なくとも熊本大学とミドリ十字の共同研究であり、形式的(実質的!?)にはミドリ十字が熊本大病院に委託する研究である。
「北大の遺伝子治療」は、北海道大学が自らアメリカのNCIから入手したベクターを用いて行なわれた。一方、HIVの遺伝子治療は、製薬企業であるミドリ十字がベクターを熊本大に提供するもので、新薬の臨床試験と同様のものである。プロテアーゼ阻害剤など様々な新薬の臨床試験が行なわれていると思うが、実施主体の「○○病院の治験」などと称することはない。「JT(日本たばこ産業)の治験」と称されたりするのではないか。
したがって、この臨床試験は「ミドリ十字の治験」(吉富製薬との合併後は「吉富製薬の治験」)と称するのが妥当である。
■「遺伝子治療」ではなく「遺伝子導入」
また「遺伝子治療ではなく遺伝子導入だ」という指摘も、一九九三年のNIHの諮問委員会でなされていた。理由は定かではないが、おそらく北大のADA欠損症に対して用いられたような体外で遺伝子導入を行なった細胞を体内に戻すのではなく、ベクターを直接注入(導入)する方法であること。また「有効性が不明であるばかりでなく、期待さえされていない」(とインフォームド・コンセントの文書に明記するようNIHは勧告している)ため「治療」という用語が不適切であることが考えられる。
■今回の臨床試験では有効性の確認はできない
日本での臨床試験の被験者は、四人が予定されている。これは第一相臨床試験と呼べるもので、小数の被験者により危険性の有無を確認することが目的とされる。通常は、製薬企業の社員やアルバイトなどによる健常者に対して行なわれるものだが、健常者に対する危険性を危惧したのか、もしくはHIV感染者でなければ評価できないためか、最初から感染者が対象とされた。したがって、そもそもこの臨床試験は、有効性を目的としたものではない。この臨床試験では有効性の有無が確認できないことは、日本の審議会でも明言されている。たった四人の被験者で、しかも比較のための偽薬投与者もおかず、さらに被験者には抗HIV剤が投与されているのだ。有効性を示す指標であるウイルス量やCTL(細胞傷害性T細胞)活性は、いずれも抗HIV剤の影響を受けると予想される。今回の臨床試験では、ベクターが定着したかどうか、どのくらい持続するのかどうか、危険性はないのかどうかに関して、ヒトで確認することにある。
わかりやすくするために、乱暴な例えを用いてみよう。この臨床試験は、ベクター(運び屋)と呼ばれる、いわばトラックの運転手の採用試験なのだ。エイズの発症予防効果をクリスマスケーキに例えると、クリスマスケーキを運ぶ運転手の採用試験と言えよう。それゆえ試験で運ばれるものは、何も本物のおいしいクリスマスケーキである必要はない。ロウやプラスチックでできているかもしれないし、賞味期限の切れたもの、素人がつくった不細工で不味いケーキであるかもしれない。ただ爆弾などといった危険なものでないことは確認されている。運転手の採用試験ならば、それで充分なのだ。にもかかわらず、あなたは「おいしいケーキ」が届けられると期待して一週間も絶食するというのだろうか(ベクターの投与のたびに、抗HIV剤は一週間中断されることになる)。
そのような的外れの期待を抱かせないためにも、「ミドリ十字の遺伝子導入実験」という用語を用いることを提案しておきたい。
■インフォームド・コンセントが適切に行われていない
では、被験者に予定されている感染者は、どのように認識しているのだろうか。
新聞には「医師と私の免疫力を信じて治療に挑みたい」「承認が延期になるたび失望を味わい続け、いつしか期待はしなくなった。この病気は時間との闘い。(承認は)遅すぎると思う」「初めての治療だから不安はある。副作用は『絶対にない』ことではない。しかし、私の細胞がどれだけ反応してくれるのか、期待もある」「患者が望めば、全国のどの拠点病院でもこの治療が行えるくらいの医療水準を持ってほしい」(一九九七年五月三〇日付け共同通信)と相変わらず期待感でいっぱいだ。
期待すべきではない実験に期待しているということは、すなわちインフォームド・コンセントが適切に行なわれていないことを意味する。インフォームド・コンセント文書には「私たちは、あなたにこの臨床研究へ参加なさることをお勧めします」と書かれていたというのだ。
この文章は、厚生省の遺伝子治療臨床研究中央評価会議で訂正されたが、四人の被験者は、こうした文章で参加した人たちだ。後から文章を変更されても、いったん生じてしまった期待感が、そうそう消えてなくなるはずはない。
■日本で例外的に許可に至った理由
しかしながら、五月に一旦認可された最大の理由は、「患者が望んでいるから」だ。そもそも我が国の「遺伝子治療臨床研究に関する指針」では、
[1] 致死性の遺伝性疾患、がん、後天性免疫不全症候群その他の生命を脅かす疾患であること
[2] 遺伝子治療臨床研究による治療効果が、現在可能な他の方法と比較して優れていることが充分に予測されるものであること
[3] 被験者にとって遺伝子臨床研究により得られる利益が、不利益を上回ることが充分予測されるものであること
を条件としている。
今回の臨床試験は[2]と[3]に該当しないと考えられるが、例外的に認可に至ったのは、a.患者の希望
b.被験者が四人に限定されている
c.副作用がない
という理由だ。それゆえ適切なインフォームド・コンセントを条件として認可されたのだ。
しかし提出されていた(それを用いて被験者への参加が募られたはずだ)インフォームド・コンセント文書は、前述のようにあまりにもひどく、大幅な訂正を余儀なくされたのである。
■年間九年間、抗HIV薬の投与を中断
被験者への参加資格も問題だ。日本では二五〇以上のCD4値で抗HIV剤投与も許されるという、アメリカの第二相臨床試験に準じた基準が採用されている。二年間にわたり、年間九回、計十八回のベクターの投与が行なわれるたび、抗HIV剤の投与が各一週間中断されることになっている。そのため、HIVが薬剤耐性を持ち、HIVが増殖することは、既に予想されている。抗HIV剤を飲み忘れると、HIVが薬剤耐性を持ち、HIVが増殖することは、既に明らかとなっている。医師から飲み忘れの危険性を説かれた感染者は多いだろう。この臨床試験では、意図的に十九回にも及ぶ『飲み忘れ』を行なうことになる。簡単に言えば、発症を早めることにつながると思われるのだ。発症予防のための臨床試験で、発症が早められるとは、何とも皮肉なことだ。
■中央薬事審議会はベクターの安全性のみを審議
このことは中央薬事審議会でも指摘されているが、中央薬事審議会はベクターの安全性に関して審議を委託されたのであり、臨床試験のあり方については権限の範囲外で責任は負えないとして、承認に至っている。アメリカでは免疫力の低下などの事例は報告されていないとされているが、これは五〇〇以上のCD4で抗HIV剤を投与されていない人に限定されていた第一相臨床試験の結果である。第二相臨床試験の結論では、免疫力の低下が報告されることがあり得ると言えよう。
■ヒトに対する臨床試験は慎重の上にも慎重を
遺伝子治療は、二十一世紀には大いに期待の持てる治療法であることは間違いない。しかし、その実用化には、まだ半世紀ほどの時間がかかることも事実なのだ。今は、基礎研究を中心に、特にヒトに対する臨床試験は、慎重の上にも慎重を重ねる時期だと思うのだ。ましてやベクターにウイルスを使うとなれば、遺伝子変異など予期せぬ事態は生じうるものなのである。HIV感染症についても、ようやく堅実な治療が行なえる体制づくりが始まったところである。そこへ不用意な期待感をあおりながら実験治療が導入されることは、着実な治療体制づくりを破壊することになるのではないかと危惧するのである。そこで最後に、いくつかの提言をしておきたい。
■科学的だで冷静な判断を
これらを実現する最も簡単な方法は、現在被験者に予定されている方々が自らの意志で降りることである。
関係者の科学的で冷静な判断を期待するものである。
[草田央]
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