■「集団で支える」のが公衆衛生
公衆衛生学というのは、その成り立ちから見てかなり若い学問である。20世紀になってから概念ができあがったもので、たとえばナチスの時代のドイツには公衆衛生の概念はない。日本の公衆衛生政策は、GHQによって導入された。
公衆衛生自体の成り立ちはウインスローの定義というものがあるが、これは、集団的努力によって健康を保持増進するというところがミソとなっている。すなわち、これを忠実に解釈すれば、健康問題を解決するのは健康問題を持った人を排除、あるいは個人の責任でやれというのではなくて、集団で支えるということが必要となると言うことである。この集団で支えるということを忘れると、集団の利益(公共の福祉)と言う言葉が一人歩きしてしまう危険を持っている。実際日本の「公衆衛生」に対する捉え方をみると、この「集団で支える」ことがあまり理解されていない。
10年ほど前には、先進国での公衆衛生プロセスとして、ヘルスプロモーションという概念が提唱され、定着しつつある。具体的に集団で支えるためにはどうしたら良いかのプロセスを提唱したもので、公衆衛生の目標を集団のQOL(生活の質)の向上におき、その実現過程として個人の能力を付与するための技術の開発と、個人の行動を増進させるための環境の整備におかれた。このヘルスプロモーションについてはすでに連載で紹介した。
■社会防衛として曲解されやすいが…
さて、公衆衛生の一つに、健康問題に対して危険を与えることがらについての「監視」という問題がある。これが、「社会防衛」として曲解されてとらえられやすい面を持っている。
たとえば感染症の発生に対して監視を行い適切な介入を行うということを取り上げれば、感染症が重大な問題であって、不必要に感染しなくても良い人たちに広がらないためのプロセスと言うことになる。このため、日常行動内で病原体が排出され、その「排出された病原体」が日常生活に影響を及ぼし、それが重大な問題になる場合に限り(HIV感染症をはじめ多くの性感染症や血液を介する感染はこれに該当しない)、個人の自由が束縛される結果になることがあるが、これはこのプロセスの過程にある一過性のもので、個人の排除ではないことに注意する必要がある。この監視と介入というプロセスは多数のために少数を制限するという社会防衛から来る発想ではなくて、一時的にその要因をコントロールするために行われるという過程にすぎず、その要因がなくなるあるいは要因がコントロールできれば解除されるものであって、レッテル貼りではないことに留意する必要がある。コントロールは必要最小限に行われるべきであって、そのための技術が開発されなければならない。つまり、公衆衛生的アプローチとは「君子危うきには近寄らず」ではなくて「積極的に近寄り、能力を与え、Living Withの環境を整える」ことである。
もう一つリスクという概念がある。これは、特定の疾病を集団レベルで見たときに、集団の疾病頻度を高くする(負の影響を与える)特有の因子のことである。つまり、「特定の病気へのかかりやすさ」である。その因子をコントロールすることによって疾病の出現頻度を低下させることができる。因子はコントロールできないものもあるが、因子は一つではないので、その場合は他の因子をコントロールするということをする。また、因子ではないものはコントロールの対象にならない。
たとえば、エイズ予防と性行為はこの関係にある。性行為をしなければ性行為による感染はゼロであるが、それは現実的な方法ではない。従ってリスクを決定的に減らす方法としてコンドームがある。つまり、性感染に対するHIV対策は、コンドームを使える能力を与え、コンドームを使いやすい環境を作ることが公衆衛生的アプローチの一つである。感染者排除は、この因子除去にすら寄与しない方法であり、決して公衆衛生的アプローチになり得ない。
なお、このリスクとは決して一般集団に対して危害を加えるという意味ではないことに注意する必要がある。リスクは公衆衛生学以外の領域では「危険因子」と訳されることが多いが、デインジャーあるいはハザードではないので、公衆衛生学領域ではそのまま「リスク」と訳し、危険因子と訳すことはあまりやられない。「リスク」を明らかにすることは「介入」「接近」のための手段であるが、このことが理解されていないと、「リスク」イコール「危険」イコール「排除」という誤った考え方が生まれる。また、この「リスク」は因果関係の有無ではなく、そのリスクの対応策である介入効果の大小でその意義が決まる。リスクはあくまでも集団の相対的な指標であり、個人個人に絶対的なものではないことに注意する必要がある。しかし、このことを理解させる努力をしていないことは不幸である。このように用語が一人歩きしてしまうので、リスクという言葉は一般向けにはあまり使われない。たとえば、学術的に「ハイリスクグループ」とはこのリスクを持った集団を言うが、それは本来、特有の病気にかかりやすい要因を持っているのだから、十分手厚くアプローチすべき存在であることを示している。しかし、日本ではハイリスクグループという用語が「危険な集団」という風に本来とは全く違う意味に誤解されて一人歩きしたので、HIV感染症では、この用語は避けて、学術的にはハイリスクビヘビア(病気になりやすい因子としての行動)と言う言い方をしている場合が多い。
■妊婦の出生前診断
少しHIVと違う領域で見てみよう。障害関連では妊婦トリプルマーカーズテストの集団応用(マス・スクリーニング化)が問題となっているが、これを例に取り説明してみよう。これは、妊婦の血液中のhCGなど3種のマーカーをはかることによって、胎児の染色体異常(主としてダウン症)や二分脊椎の可能性を「確率」で示すものである。「確率」が高い場合は、羊水検査を勧められることになり、羊水検査で確定診断がつくと、産むか人工妊娠中絶をするかの選択を迫られることになるが、実際は中絶(胎児の排除)をすすめられる。
こういう出生前診断は、本来、特別な事情があって胎児診断を希望する人のための個別の臨床行為として、遺伝的カウンセリングなどを行った後、倫理的な問題を加味しながら十分なインフォームドチョイスのもとに行われるべきものである。このトリプルマーカーズテストは、羊水検査の前段階として侵襲が非常に少ない検査として開発されたものであるが、現実問題としては、人工妊娠中絶という選択肢を前提に、当事者や大衆レベルでの議論もなくこの検査の拡大(すなわち特別な事情がない妊婦への一斉検査化)が行われている。障害児者諸団体は、「障害児の存在を否定し、障害児にはQOLと言うものがないと言うことを前提としている検査」であるとし、これが、「障害児者への偏見が多い現在では、社会的な圧力によって、トリプルマーカーズテストを受けることが是とされ、なし崩し的に全妊婦に拡大されることは障害児者の存在を否定するものである」とし、強く懸念している。
この状況は、一見対岸の火事のように見えても、実は、HIV検査論議をめぐる過去の状況とよく似ているではないか。多くのPWAの声によって、HIV検査の無断検査、強制検査、説明のない検査を明瞭に否定した厚生省通知が出たことは記憶に新しい。
■日本の公衆衛生を阻む優生学の問題
日本の公衆衛生を阻むものとして、優生学の問題がある。我が国でも、最近まで優生保護法が存在し、特別な人たちの「不良の子孫」を排除することが合法化されてきた。この特別な人たちとして、障害者、感染症患者が位置づけられていたことは記憶に新しい。このように「特別な疾病」を排除する思想は優生学に源流を求めることができる。最近では、優生学が姿を変えたものとして、「公衆衛生」が集団の幸福の名の下に個人を犠牲にすることを正当化する学問であると述べている識者もいる。公衆衛生は、みんなが幸せになるためにみんなの力で協働するための学問であり、行動であるはずである。しかし、残念ながら、現在の日本では、公衆衛生は、「保健衛生領域における社会防衛学」と同義に取られ、幸せを抑制するものとしてとらえられていることが多い。
エイズに関する障害者認定の時でも、一部に「公衆衛生はエイズ予防法で見る強制健診を代表とした社会防衛学の支持理論」としてとらえられ、「今回の障害者認定で、エイズ対策は公衆衛生的対策から個人の幸福へと転換された」と批判された。しかし、障害者認定に関しては、当事者や支援者が組織的活動を行い、そして必要な対象を疫学的に測り、その結果として必要なサービスを公共政策として提供したという過程を見ると、まさに「本来の公衆衛生」の具現化であるはずである。日本でも、成功している一部のエイズ対策の過程を見ると、公衆衛生理論にかなっている。
公衆衛生学というのはその名の通り公衆の意思に左右される部分があるが、そこには倫理という問題を除外して考えることはできない。しかしながら、政治的に利用されやすいことも確かであり、公衆衛生はご用学問になりがちな面を持っている。公衆衛生政策は、倫理的な規範を持っていなければ時として政治的に利用されることとなる。日本の感染症対策は、これまでこの規範なく行われすぎたのではないか、と言う感がある。これは私たち公衆衛生に従事するものの自浄作用の問題でもある。
■本来の公衆衛生を取り戻すために
わたしはかつて感染症対策のある教科書に、「隔離」しか載っていないと言うことを嘆いたことがある。なぜ、そこに「治療」がないのか。たとえ、日常行動内で病原体が排出され、その「排出された病原体」が日常生活に影響を及ぼし、それが重大な問題になる場合であっても、治療して感染しなくなればそれが最も有効な感染源対策である。赤痢しかり、コレラしかり、結核しかりである。「隔離」は単なる緊急避難であり、それは決して主体ではない。緊急避難は必要性がなくなれば即時に解除されなければならない。もちろん嘆くだけではなく、(そのとき大学で教鞭を執っていたから)学生に訴えてきたが、この教科書を見ると確かに「公衆衛生イコール社会防衛」しかアタマに残らないであろう。つまり、感染症イコール隔離イコール排除だと言う短絡図式である。もちろん、日常行動で感染せず、性行動など特定の状況でも、注意すれば感染しない技術が開発されているHIV感染症は当然「隔離」の対象になることはない。
公衆衛生は人々の味方であり、良識であらねばならない。当事者抜きの公衆衛生、相互理解と協働のない公衆衛生など、絶対にあり得ないはずである。みんなで本来の公衆衛生を取り戻そうではないか。
JINNTA[FAIDSスタッフ]
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