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公衆衛生医からのエッセー
エイズ教育を 「整理」する

公衆衛生医師 JINNTA 

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 ■社会全体のフレームと関係するエイズ教育

 LAPニュースレターも29号が発刊の運びとなるとのことで、私の連載も十数回を数えている。平成5年から始まっている地道なエイズNPO活動が発展継続していることにおよろこびを表し、私の書いている駄文を掲載してくださっていることについても感謝を申し上げたい。
 現状として、エイズはやはり冬の時代である。特に私のように地方に身を置いて、エイズ教育活動の末端を汚しているものとしては、大きな問題はエイズに対する理解をどうつくってゆけばよいかと言うことである。それは、単にエイズや性という問題にとどまらず、社会全体のフレームと関係しているように思えてならない。
 今回、紙面をいただいたので、エイズ教育ということを少し整理してみたいと思う。

 ■エイズ教育って、そもそも何?

 エイズ教育はどんな人が行うものであろうか? 教育というと、大部分の人は学校で行われるものをイメージする。保健所に行けば、エイズ教育は医師や保健婦さんや栄養士さんが行うものを考える。実際には、エイズ教育というのは学校教育以外に、いろいろな場で行われている。だからエイズ教育は学校で行われるものだけを指すのではない。学校以外では、教育ということばを使用しない場合が多いであろうが…。
 エイズ教育とは社会全体から見たらどういう位置を占めるものなのであろうか。エイズという「疾病」に関する教育にとどまるものであろうか。あるいは、エイズ教育至上主義といったものがあって、崇高な精神によって行うものであろうか? いずれも違うように思う。
 社会とエイズ教育という点では、大きく言って2つのポイントがあるように思われる。一つは何を目的としてエイズ教育が存在するのかと言うこと、もう一つはエイズ教育は何を扱うのかと言うことである。

 ■エイズ教育は何を目的とするのか

 「何を目的としてエイズ教育が存在するのか」については、エイズ教育は人々がより幸せになるための一つの方法であると位置づけられる。以前の連載でヘルスプロモーションという話をしたが、たとえば病気の予防は、病気にならないことが最終目的ではなくて、病気になるとそれが障害となり何かと不便であり、また暮らしに大きな影響を与える。だから病気の予防とは、日々の暮らしをより幸福にするために、病気にならないことや、病気による障害や生活の不安・不便、精神的な落ち込みや生きがい感の喪失などを克服するための手段である。この一連の末端、しかし重要な方法としてエイズ教育が位置することになる。
 ヘルスプロモーションでは、こういう目的を達するために、個人個人の能力を開発(能力付与)して、周りの環境を個人の行動がしやすいように変えることをプロセスとする。個人への能力付与とは、実際に行動できるための能力を養うためのアプローチである。エイズ教育では、エイズを知るためのもろもろの準備、エイズを知ること、エイズ予防のための行動ができることを目標とすることになる。一方、周りの環境を変えることは、エイズでは教育的な部分と、サービスであるとか制度であるとか、NPO活動を充実させると言った社会の仕組みを整える部分である。この教育的な部分は、一つはエイズ予防の行動がしやすい社会にするために、またPWAが必要な医療、福祉を受けられ、地域社会でのノーマリゼーションを進めるために、人々にエイズに対しての理解を唱えることである。

 ■エイズ教育は何を扱うのか

 エイズ教育は、エイズの医学的なことがらを教えるとか、予防の具体的な方法を教えるだけに終始するものではないだろう。能力付与とは、実際に行動できなければ目的を達しないものである。HIVの感染の確率を下げる行動(これをエイズ予防といっていることが多い)を行うには、行動するための力を養成することが求められる。
 行動を起こすには、まずエイズを知らなくてはならない。知ろうとする動機を養うには、世の中で何が起こっているのかをアンテナを広げて知りたいという気持ちを養うことが必要で、エイズや性に関してどのようなことが社会で起こっているのかを伝えることが必要である。
 しかし、エイズを知ったからと言って行動ができるわけではない。知識の伝達方法が断片的であると、むしろ「自分とは関係ない」といってそれ以上の学習を放棄してしまうこともよくある。
 自分の問題として考えること、判断力(自己決定力)を身につけることや、自分の行動を他人任せにしないで自分で考えることの重要性は、エイズ教育には欠かせないであろう。医学的なことがらとか、予防の具体的な方法はその延長上に位置するものであろう。
 一方、エイズとの「共生」が、よく学校教育で扱われる。これは一人歩きしてはあまり有効ではない。あまり好ましくない図式は、エイズの予防とLiving with AIDSが切り離されて教えられることである。前回でも述べたが、Living with AIDSとは、人と人とのつきあいを知る教育、情を育てることが必要になるのではないかと思われる。実は、Living with AIDSについて扱い、社会で起こっていること、メッセージを伝えることは、エイズについて知ろうという動機を呼び起こす良い方法である。これらの詳細については、後ほど述べたいと思う。

 ■エイズ教育はどのように進められているのか

 ここでは主に、文部省サイドで行われていることを中心に述べてみる。この他に、独自の活動がたくさん行われているが、文部省サイドの取り組みは全国的なものなので、例として見てみたい。
 エイズ教育の推進ということで、文部省は「エイズ教育(性教育)推進地区指定」を行って、全国的に展開している。この取り組みは[図1]の3つの柱で進めていることが多い。

[図1]エイズ教育(性教育)の3つの柱
1.実態の調査(児童生徒と地域でのエイズや性に関する知識・意識の実態)
2.学校教育での取り組み(児童生徒への教育)
3.社会教育での取り組み(地域の啓発)

 さて、この中で重要なことは、この3つの柱が意味を持ったつながりを持たないと、あまり大きな成果が期待できないことである。これは常識で考えればわかることで、実態を知ってその指定された地域での問題点を明らかにして、それに応じた学校教育と社会教育を展開する必要がある。つまり、何らかの教条的なものがあって、マニュアル的に教育が行えるものでない。
 また、学校教育は社会の要請を十分に受け取って行われるべきである。社会が学校教育に何を期待するのかを知ることが大切である。たとえば、児童生徒の属する家庭は千差万別であって、エイズや性に対する考え方は家庭によってもずいぶん違うと思う。その中で最大公約数的なものを見いだして学校教育に反映させることも必要であるが、どの程度バリエーションがあるのかを知ることも必要である。実際、学校教育だけで児童生徒の行動を変える(というか、行動を支える基礎をつくることが要であるが)ことは難しい。学校と家庭とのコミュニケーションと役割分担が必要となってくる。
 役割分担とは、共通の目的に従って分担するおのおのが自発的に役割を担うことである。押し付け合いやぶんどり合戦ではないことに注意しなければならない。従って、「これは学校でやること、あれは家でやることだ」と片方が決めつけてしまうことではなく、まず、目的共有を図ることが求められる。これについては後ほど「連携」の項目で詳しく述べたい。

 ■ 自分で考えられる自立した人間を育てること

 前号で、「用意されているプログラムを忠実にこなせる標準化された人間を育成するのではなく、自立した人間を育てることが必要だ」ということを述べたが、実際は、マニュアル的なものがあれば、児童生徒の知識や意識の実態とか、地域での実態を知らなくても、エイズを学校現場で教えることができるし、モデル的な例を引っ張ってくれば社会教育もできる。
 しかしそれは結局のところ、上意下達的な、よらしむべししらしむべからず的な態度につながってくる。断片的で整理できない知識を集めて優等生になっても、現実と結びつかなければ、保健のテストで点は取れても、本当のエイズ予防にはつながらないであろう。
 エイズ教育や性教育は、断片的な知識の羅列に終わってはいけない。たとえば、エイズ予防にコンドームを知っていても、それだけでコンドームを使えるわけではないし、みんながコンドームを使おうとするわけでもない。「病気がうつるのがこわい」から使う。それはそれでも当面はいいかもしれないが、もっと大切なことがあるはずだ。
 エイズ教育で重要なことは、結局、自分で考えることができる自立した人間を育てることである。そして、行動を支える環境をみんなで整備することである。その延長上に具体的な性の知識やエイズの知識が乗っかって、行動につながることになる。
 これは言うのは簡単だが、実に難しい。「これはいけません、あれは大丈夫、そういうのは特殊なことです」と教える方がよっぽど楽である。しかし、「これはいけません」といわれたことをしてしまったらどうするのだろうか。「あれは大丈夫」といわれたことをしたのにトラブったらどうするのだろうか。「特殊なことです」は差別や偏見をもたらさないのだろうか?
 賢明な読者のかたはすでにお気づきであろう。このような教育を受けた結果が、「理解の裏付けのない予防」、「エイズノイローゼ」、「自業自得論」をもたらしてきたことを…。
 社会をつくるのは人である。つまり、行動しやすい環境を整えるのも人である。だから、行動を支える環境をつくるバックボーンには、人づくりの重要性がある。そういった意味でも教育を見直したい。
 「理解できないから教えない」ということは、「教えることができない」ということの裏返しである。どう教えたらよいのかということは、教育学者や学校保健研究者により、多く研究されているであろうし、それが彼らの社会的役割である。私も学校保健研究者の末席を汚しているが、これらの成果が現場でも発揮されることを望みたい。そのためには、研究者もこういう「学問の領域」を現実と結びつける実践家であってほしい。
 私見では、教育を受ける側が、「知りたい、学びたい」という動機を呼び起こせるような「メッセージ」を受け取ることが重要なポイントだと思う。そして、この方法は、NPOでは当たり前であるし、先進地と呼ばれるような教育現場では、実際に実践されているのではないかと思う。教育する側には、情報を集めるアンテナと、感性を磨くことが求められる。

 ■地域での連携とは?

 社会教育と保健所がやっている啓発とNPOがやっている普及活動とか情報提供は、ともに同じような目的を有しているはずである。しかし、現実にはあまり連携がとれているとはいえない。だから、地域ではずいぶん無駄なことをしている感がある。
 そもそも連携とは何であろうか? 連携する機関どうしが都合がよいように仕事を分け合うことであろうか?
 連携には目的があるはずである。目的とは何か? 実は機関どうしが連携することが目的ではなく、その中心に対象者がいるはずである。対象者が幸せになるために、周りが連携するのである。対象者は誰なのか、目的は何なのかを問い直すとよいと思う。
 連携する各機関は、お互いの自由を損なってはならない。たとえば、NPOの情報提供活動を統制するような形での連携は成り立たない。連携の場とは、誰かが「仕切る」場ではなく、「私たちはこれをやるからあんたはこれをやってくれ」と言い放つ場でもない。目的が同じ方向を向いていて、異なった働きにより、地域住民なり児童生徒なりによりよいものを総体的に提供できるための手段、それが連携なのである。
 筆者らは一昨年から昨年にかけて、厚生省の補助を受けて「連携」について研究を行った。対象は必ずしもエイズに限られたものではないが、連携というものの捉え方は機関によってかなり異なること、対象者サイドから見て連携のあり方はどうかなどを検討した。特に公的サービスについては連携の必要性が示唆されたが、教育も同じであろう。連携には、まずみんなが集う場が必要であり、みんなのすれ違いを翻訳し、対象者の情報を集め、何が求められているのかを知る努力が必要なのである。もっと言えば、対象者と呼ばれる人が本当は主体なのである。連携の中心に対象者をおく努力が求められるのではないかと思う。その役割の大きな部分をNPOが担うであろうことは以前から述べてきた。

 ■おわりに

 今号は「社会福祉・医療事業団の助成事業で発行されるので、普段より量を増やしてくれたらうれしいな」という要請があった。せっかくの機会なのでこれまで散文的に連載に書いてきたエイズ教育の周辺を整理して書いてみた。もとより私見であって、まとまりのないものになってしまった観があるが、読者にとって何らかのお役に立てれば幸いである。

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