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エイズ・ノイローゼ

草田央 

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 インターネット上にエイズのサイトを持っていると、別に個別相談を受け付けているわけではないのだが、ときどき質問のメールをいただくことがある。素朴な疑問、データの照会などはいいのだが、なかには同一人物から無限に続くのではないかと思うような質問攻めにあうことがある。結局、私への御批判だったというケースもなくはないが、客観的質問を繰り返していながら、その実、自分自身の不安を何とか解消したいという悩みが隠されているケースも多い。リスク行為がないのに、不安がぬぐいきれない人。検査結果が陰性であったにもかかわらず、自分はHIV感染者(エイズ)だと思い込んでいる人、などなど。
 電話相談を担当したことはないが、ノイローゼ状態に陥っている人からの質問も多いに違いない。やみくもに抗体検査を受け続ける人も少なくないと聞くし、検査目的の献血者の中にも、そういう人がいるかもしれない。陽性の診断も受けていないのに、直接、拠点病院を受診する人が増えれば、現場は混乱するに違いない。そこで今回は、これについて考えてみたい。

 ■病気(HIV感染)ではないのに、病気であると信じ込んでしまう

 ノイローゼは、古くは「神経症」、現在は「不安障害」と呼ばれることが多い概念である。「心因性の精神障害で、精神的な葛藤、外界の環境などの圧力による危機的状況にうまく対応できず、心理的に不安定になり、心身ともに障害を生じるもの」を言う。
 具体的には(一)不安神経症、(二)強迫神経症、(三)恐怖症、(四)心気神経症、(五)抑うつ神経症、(六)ヒステリー、という分類がなされてきた。しかし、時代とともに概念自体が変遷し、現在では、アメリカ精神医学会の「精神障害の診断と統計マニュアル」第四版(DSM-IV)から神経症という言葉は消えている。精神病や心身症との境界もあいまいで、正常と異常の見分けも難しい概念である。

 ■「心気神経症」(心気症)の定義

 このうち、エイズ・ノイローゼは「心気神経症」(心気症)に該当するケースが多いのではないかと思う。DSM-IVでは、次のように定義される。

A.身体症状に対するその人の誤った解釈に基づき、自分が重篤な病気にかかる恐怖、または病気にかかっているという観念へのとらわれ。
B.そのとらわれは、適切な医学的評価または保証にもかかわらず持続する。
C.基準Aの確信は(妄想性障害、身体型のような)妄想的強固さがなく、(身体醜形障害のような)外見についての限られた心配に限定されていない。
D.そのとらわれは、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域の機能障害を引き起こしている。
E.障害の持続期間が少なくとも六ヶ月である。
F.そのとらわれは、全般的不安障害、強迫性障害、パニック障害、大うつ病エピソード、分離不安、または他の身体表現性障害ではうまく説明されない。

 また、国際疾病分類(ICD-10)では、

a.繰り返される検索や検査により、何ら適切な身体的説明ができないにもかかわらず、現在の症状の基底に少なくとも一つの重篤な身体的疾病が存在することへの頑固な信念、あるいは不具や醜形があるだろうという頑固なとらわれ。
b.症状の基底に身体疾患や異常が存在しないという、数人の異なる医師の忠告や保証を受け入れることへの頑固な拒否。

と定義されている。
 つまり、病気(HIV感染)ではないのに、病気であると信じ込んでしまうのが心気症である。
 精神症状学では、(一)知覚の障害、(二)思考の障害、(三)感情・気分の障害、(四)意欲・行動の障害、(五)自我意識の障害、(六)意識の障害、(七)知能の障害、(八)記憶の障害に分類しているが、このうち心気症は「(二)思考の障害」内の「妄想」(思考内容の障害)に位置づけることも可能かもしれない。妄想とは、「病的に作られた不合理な思考内容で、論理的に説得しても訂正不能なもの」である。

 ■健康であるべきと考えれば考えるほど…

 わが国では、明治から大正にかけて活躍した森田正馬が、神経症を(一)普通神経質、(二)強迫観念症、(三)発作性神経症に分類している。このうちの(二)強迫観念症に「疾病恐怖」が含まれ、エイズ・ノイローゼは、ここに分類されるだろう。
 森田は、神経症の原因をヒポコンドリー性基調(森田神経質)に求めた。ヒポコンドリーとは、自分の不快気分、病気、死ということに関して、これを気にやみ取越苦労する心情である。この傾向の人は内向的で、外界の事物よりも自分自身に注意を向ける傾向が強いという。「生の欲望」が強く、「かくありたい、こうあるべき」という性格傾向であるがゆえ、その対極にある死への不安も強くなると考えた。
 そうした傾向の人は、何かのきっかけで、健康な人にもありがちな普通の感覚(症状)を、病的なものと思い違え、今後もそれがたびたび起こりはしないかと「予期恐怖」を起こす。「かくあるべし」(健康であるべき)と考えれば考えるほど無理が生じ、気にすまいと思えば思うほど意識が集中し、その感覚はますます鋭敏になり強くなり、その結果、ますます意識が集中していくという悪循環(精神交互作用)が形成される。このようなとらわれがひどくなるつれ、生き生きと生きるという自由を失っていくことになる。これを何とか自分にとって都合の良い理由をつけて「合理化」し、逃避をする(はからいの行動)。そして最後には、現実に背を向け、自分の心身のマイナス点のみを気づかい、自分を劣等視し、孤立化し、ときによっては現実の時間を無視して症状のみを反復して考え込み、同じような確認行為をくり返し、いよいよ現実生活を狭めて日常的な現実から遠ざかっていこうとするのだという。
 フロイトの精神分析学では、心因となった外傷体験(トラウマ)を解明することによって治療を行う。森田は、これらの症状を「人間普遍的な自然現象」と考え、「あるがまま」に受け入れることに重きを置く。作業を通じて、とらわれた心を外に向けさせ、苦悩、不安、恐怖を消そうという「はからい」をしなくてもいいんだと考えられたとき、とらわれは解放され、ヒポコンドリー性基調の人が持つ「生の欲望」が発揮し、自己実現に向かうというのが、森田療法である。

 ■「エイズが時代(死)を象徴する疾病だから」

 さて、基本的な概念についておさえたところで、具体的にエイズ・ノイローゼについて考えてみよう。
 心気症は「身体表現性障害」に分類されることがあるように、身体の様々な症状をきっかけに発病し、本人は身体症状のみを訴え、精神的問題を否認すると考えられている。エイズ・ノイローゼの場合も、微熱が続いたり(感染初期の風邪様症状)、発疹(カポジ肉腫からの連想か?)をきっかけにすることもあるだろう。しかし、何らの症状もなく、罪悪感などの心理的葛藤をきっかけにする場合もあるのではないだろうか。なぜなら、HIV感染症そのものが、特定の症状を持たないからである。もちろん、不安感が強まることにより、動悸、腹痛、食欲不振、下痢、呼吸困難、頭痛、めまいなどが生じることは十分考えられる。けれども、エイズ・ノイローゼに限っては、抗体検査により、少なくともHIV感染症の可能性だけは医学的に容易に排除できる(本人は、それに納得はしないが)。やはり重視すべきは、なぜ本人がHIV感染を疑うようになったか、その経緯を追うことのような気がする。
 もう一つ、エイズ・ノイローゼに特徴的なのは、必ずしも本人である必要性がないことだ。つまり、パートナーや家族のHIV感染を信じて疑わないというケースもあるのだ。実は本人の感染不安でありながら、第三者であるかのように偽装するケースは多々あるが、ここで言及しているのは、純粋に本人以外の感染を不安視しているケースである。もちろん、その場合、たとえばパートナーが感染しているという″確信≠ゥら、自分も感染してしまうのではないかという「予期恐怖」が見られることもある。
 これらの恐怖感は、たとえばリスク行為があり、抗体検査を受け、陰性結果を受け取るまでには、誰もが陥る正常な反応である。また、一九八〇年代の、まだ「正しい知識」が普及しておらず、マスコミが恐怖をあおっていた時期には、数多くの人が陥った反応でもある。が、検査の信頼性も高まり、一定の「正しい知識」も普及した今、継続的に不安感にさいなまれているとしたら、それは「神経症」レベルにまで達していると言わざるを得ないだろう。
 なぜ「エイズ」なのか? と問われれば、やはり「エイズが時代(死)を象徴する疾病だから」ということになろうか。ガン・ノイローゼとともに、「告知されないこともあるのではないか」との認識が、それに拍車をかける。

 ■長期戦になることは、覚悟せねば

 治療は、実際のHIV感染症より困難である。精神科による薬物療法やカウンセリングは効果が期待できるだろう。しかしながら本人は、これが神経症であることを決して認めないため、それらの受診も頑なに拒否するのが、心気症の特徴でもあるのだ。本人の訴えを尊重しながら、安定した信頼関係を構築し、併行して精神科やカウンセラーにつなげていくよう試みるのが最善の方法であるようだ。長期戦になることは、覚悟せねばならぬ。
 都合の良いことに、HIV感染症では、検査前や検査後のカウンセリングおよび感染者を対象にしたカウンセリングの重要性が叫ばれている。その気になれば、本人の訴え(自分はHIVに感染しているに違いない)を否定することなしに、カウンセラーにつなげることは容易かもしれない。

 ■ボランティア団体等の選択肢は2つ

 実は、エイズのボランティア団体などが、この二〇年間たたかってきたのは、感染予防対策でもなければ、感染者のケアでもなく、主に、このエイズ・ノイローゼだと言っても過言ではないだろう。当たり前のことだが、エイズ・ノイローゼは、エイズでもなければHIV感染症でもない。にもかかわらず、あたかもエイズ対策であるかのように、この「妄想」とたたかってきたのである。
 このような不安を放置してよいはずはない。エイズ対策でなくても、不安を感ずる人たちの心のケアは必要だ。しかし、そのような理念を掲げて行なってきたわけでもなかった。中途半端なのだ。HIV感染症と直接向き合うことが「怖い」ので、そのような「妄想」を相手にすることを選んだのかもしれない。けれども、心の問題は、感染症の問題よりも、もっとシビアで「怖い」ものだ。それを知っているがゆえ、中途半端にとどめているのかもしれない。その結果、HIV感染症に対しても、エイズ・ノイローゼに対しても、無力な「失われた二〇年」を演出してきてしまったようにも感じる。
 残された選択肢は二つ。一つは、エイズ・ノイローゼを対象外として、相談やケアなどから切り捨てること。もう一つは、「いのちの電話」のように、エイズ・ノイローゼなどの心のケアにも真剣に取り組む道である。

[草田 央]
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