日本においては「エイズ冬の時代」と言われる。エイズに対する関心は急速に低下し、資金の投下が続いているODAや各種研究班を除けば、お金も人も集まらない状況と言えるのではないか。そんなときに、この会報を読んでいる人は相当奇特な人だ。そんなあなたは、周りから「何で“まだ”エイズになんかにかかわっているの?」との質問を浴びせられることになる。あなたは何と応えているのだろう?
かつてのエイズ“ブーム”では、エイズに取り組むことで何か先進的な気分にひたることができた。少しばかり勉強すれば無知と偏見に満ちた人たちより優位に立ち、“啓蒙”という名の活動で優越感を得ることができた。しかし最近は、エイズに関してそれほど大きな科学的発見があるわけではない。あなたが知ってる程度のことは、もう皆が知っていることになってしまった。
自尊心を傷つけられ、かつての栄光を忘れられない人たちは、どのような反撃に出るのだろうか。まずはそこから話をはじめたい。
■かつての栄光を忘れられない人たちの反撃
一つは「いま取り組まなければ、近い将来たいへんなことになる」という脅しである。脅しという手法の誤りは、今までも繰り返し書いてきたので、今回は省略する。もう一つは「エイズに取り組んでいない人は〈目覚め〉ていない人たちだ」といったような自分の価値観を押しつけるような行動に出ることだ。
たとえば(エイズとは関係ないが)「選挙に行こう」というキャンペーンがある。投票に行く人は〈目覚め〉ていて、投票に行かない人は、あたかも人非人のように批判されるわけだ。こうした主張の大半がおかしいと感じるのは、たとえ選挙に行っていても、例えば自民党にでも投票してれば、やはり〈目覚め〉ていないとされてしまうことだ。つまり、自分の支持する政党(もしくは立候補者)に投票している人は〈目覚め〉ていて、それ以外は全て非難の対象になるというだけの話でしかない。「投票率の低下を懸念する」という大義名分で、自分の価値観を押しつけているだけのような気がするのだ。
投票率低下の問題の一つは、自分の投票したいような人物が立候補していないということだ。にもかかわらず、地縁・血縁等々の外部からの縛りによって、必ずしも積極的に支持しているわけでもない候補者に投票する行為の方が、よっぽど〈目覚めていない〉行為に私には思えるのだ。そのような〈無自覚〉の人たちの投票がなくなった方が、選挙結果に民意が反映されることになりはしないだろうか。
■検査を受けている人は〈目覚め〉ている人?
HIV検査でも「検査を受けている人は〈目覚め〉ていて、検査を受けていない人は〈目覚め〉ていない」という価値観が蔓延している。電話相談でも、最後は「検査を受けなさい」というのが定番だ。
しかし、HIV検査で重要なのは、検査を受けるべき人が受けるべきタイミングで受けられる環境のもとに受けることだと言える。何でもかんでも検査を受ければいいわけではないのは、ちょっと考えただけでもわかることだ。たとえばハイリスク行為がやめられず検査だけは定期的に受け続けているような人物を想定してみるといい。彼にとって検査は、単に安心感を得るためだけのものとなってしまっていて、むしろ検査で安心することでハイリスク行為の継続につながっている面が出てしまっているのである。こうしたケースでは、いたずらに検査をすすめるのではなく、ハイリスク行為をやめられない障壁について取り組む必要がある。たとえばハイリスク行為もしていないのにエイズ不安症に陥って検査を受けている人がいる。そうした人に検査をすすめれば、かえって不安を倍増させてしまうケースもあろう。むしろこのケースでは、検査の必要がないことを説明することの方がベターなのだ。
検査率低下の解決で必要なのは「検査を受けるべきだ」といった類いの価値観の押しつけではない。いつでも気軽に受けられる検査体制(環境)の整備であって、いつどこでどのように受けられるのかといった具体的な情報の提供である。
■病者がもっと〈目覚め〉るべきだという風潮
病者(社会的弱者)のカミングアウトや社会運動を礼賛する風潮も気になる点である。「もっと多くの病者が〈目覚め〉るべきだ」というのだ。ところが、そうして社会に向かって叫んでいる人たちのなかには、自分の病気の管理がおざなりになっているケースが多く散見される。
もちろん、社会的弱者が状況を変えるために発言し活動することは非常に重要なことで、そのことは大いに尊敬されるべきことである。しかし、私が言いたいのは、そうした活動をしていない(できない)人たちであっても、「目覚めていない」といった言葉で侮蔑されるべきではないということだ。社会的発言や活動はしていても自分の病気の管理もできていない人物と、社会的発言や活動はしていなくても自分の病気を管理し平凡な社会参加を果たしている人物とでは、私は明らかに後者の方が病者として〈目覚め〉ていると感じてしまうのだ。病者の自覚としての第一歩は「セルフヘルプ」ではないのか。
逆にセルフヘルプのできていない人は、必然的に他力本願になる。それが満たされない不満が社会への発言への糸口になっているとしたら、それは説得力を欠くものにしかならない気がする。「自分はこんなに頑張っているのに」といった自己礼賛と侮蔑の選別が始まったとたん、その発言者は社会的弱者を代弁している座からすべり落ちてしまうのだ。セルフヘルプの延長線上として、同じ境遇の人たちとの相互扶助がある。その上でも解決できない問題になって初めて、社会への要求を掲げるべきではないのか。セルフヘルプもなしに全ての不満を社会のせいにする姿勢は、〈目覚め〉ているどころかネガティブにしか私には思えない。一つ一つの目の前の問題をポジティブに解決していく姿勢こそ重要なような気がするのだ。
■私たちは既に〈エイズの時代〉に生きている
冬の時代だからといって、脅しや価値観の押しつけに走る必要はない。私たちは既に〈エイズの時代〉に生きているのだから……というのが今回の主題である。
フリーセックスを謳歌しているかに見える若者にしても、抗生物質の登場で性行為感染症を怖れる必要がなくなったと錯覚した時代とは大きく異なるハズだ。エイズを知らないものは誰もいない。セーファーセックスを無視した無謀な行為をしていても、常に頭の片隅にはエイズがある。使う使わないは別にして、少なくともコンドームはタブーではなくなってきた。
電話相談でのトップをひた走る〈ファッションヘルス〉に代表される風俗産業にしても、エイズ登場以後、より安全性指向になっている気がする。新たに登場してきた〈イメージクラブ〉での〈素股〉(ヴァギナのかわりに手を使った疑似本番行為)は、〈本番〉や〈口内発射〉より安全と考えられているのかもしれない。そして〈おさわりパブ〉のような非射精産業の隆盛である。
■〈エイズの時代〉がもたらす医療現場の変化
最も大きな変化は、やはり医療現場に見られる。
例えば告知問題。エイズ登場以前には、ガン告知の是非が論争になっていた。しかし、エイズが性行為感染症であること、薬害エイズでの非告知が社会問題になったこと等で、少なくともHIV感染症に関して本人告知に反対する者はいなくなった。それとともに、ガンを始めとする様々な疾病に関しても、本人告知が主流になりつつある。
医療従事者の感染事故対策も、エイズとともに大きく進んだ。針刺し事故防止対策としての専用ボックス(針のリキャップを不要にするもの)の使用は徐々に進んでいる。もちろんB型肝炎やC型肝炎などの他の感染症対策でもあるので、HIV感染症に特化した対策というわけではない。あなたがHIV感染者でなくても、病院での採血で目にする機会は多くなってきているだろう。外科医のゴーグル着用なども一般化している。
インフォームドコンセントやアドヒアランスといった患者中心の医療の考え方も、浸透し始めている(もちろん、まだまだだが)。抗生物質の発見で、医療は劇的な進歩を遂げた。しかし、それでも根治できない病気に関して、医学は行き詰まってしまった。「医者に任せておけば大丈夫」といった幻想が消えつつある。そこへエイズが登場した。もはや患者の協力なしには医療が成り立たないことに、少しではあるが医療関係者が気づき始めたのである。
チーム医療という考え方も始まっている。エイズは多様な疾患ゆえ、他科との連係は欠かせない。ときには他の病院との連係すら必要になってくる。それまで縦割りで患者を抱え込むことが医師の責任(プライド)だと考えていた医療関係者にとって、これは劇的な変化だろう。それゆえ、まだ、ほとんどの病院で見ることはできないが、こうした流れは変えられないものと考える。
■純潔教育の無力さを明らかにした〈エイズ〉
学校現場での性教育も、もはや避けられないものになった。まだまだ薬害エイズなどでお茶を濁し、性教育を避けたエイズ教育などというものが存在するが、そう永く続くものではないだろう。
性教育は、常に純潔教育と対立してきた。「寝た子を起こすな」として、バイクの〈3ナイ運動〉みたいな主張も見られる。が、エイズの登場は、純潔教育の無力さを明らかにしたと言えるだろう。それまで学校での性教育に反対していた父兄は、家庭での性教育ができないため、逆に学校でやってもらうことを願うようになるだろう。
■遅れている職場でのエイズ対策に法の包囲網
もしかしたら職場でのエイズ対策というのが、最も遅れているのかもしれない。しかし、二つの裁判で会社側が全面敗訴するなど、法的な包囲網はできつつある。
宮田一雄著『エイズ・デイズ』(平凡社新書)によると、企業がエイズ対策に取り組む理由としてリスクマネージメント(危機管理)とともにストラテジック・プランニング(中長期的経営戦略)を挙げている。「社員がHIVに感染しないように、そして感染した場合にはきちんと対応できるようにしておくという危機管理の発想を超えて、これからは商売の相手にしようとする国が抱える問題を理解し、対策を手助けするぐらいの気持ちがなければ、マーケットを育てることも獲得することもできない」(52〜53頁)ということのようだ。望むと望まないとにかかわらず、企業の淘汰は進むのかもしれない。
■外交(安全保障)課題としての感染症対策
外交(安全保障)課題としても、エイズは重要である。冷戦後、安全保障の概念は拡大し、環境問題やサイバーテロなどとともに感染症対策が危機管理の対象となった。特に発展途上国の感染症対策で、日本はリーダーシップをとろうとしている。
以前は国内問題をおざなりにして、国民の目を外に向けさせるだけのバラ撒き外交だったが、今度はどうなるのだろう。いずれにしても、首脳会談等でエイズがテーマにならないことはありえなくなった。国際社会のなかで日本がどういう役割を果たしていくべきなのかは、在留外国人の医療費問題も含めて、我々も無視し得ない問題となっていくだろう。
■〈エイズの時代〉到来は押しとどめられない
「エイズ冬の時代」は、むしろ選別をすすめる上で、好ましいのかもしれない。ブームに乗っただけの人たちの多くは、去っていった。「夢よもう一度」で脅しや価値観の押しつけに走っている人たちは、時代の変化を読みとれない過去の遺物でしかない。
すでに変革は始まっており、「エイズの時代」の到来を押しとどめることはできない。だから変化をもたらすための大きなイベントなど、今は必要ないのだ。いま必要なのは、変化に対応するための適切な情報(環境)の整備と提供、自分の頭で考えさせるという真の意味での啓発、セルフヘルプや相互扶助といった地道な活動であると私は考えるのだが、いかがだろうか。
[草田 央]
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