LAP NEWSLETTER

公衆衛生医からのエッセー
「自分のことは自分で決める」のは難しい?

公衆衛生医師 JINNTA 

RETURN TO33号目次に戻る

 ■無防備で放り出され、おぼれたら自己責任?

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト 最近、健康や医療についても「自分のことは自分で決める」ということが主流となりつつある。
 「自分の健康は自分で守る」ということばがあり、これはWHOのオタワ憲章(1986)にみられるような国際的なヘルスプロモーションの流れを受けて、早い時期に日本で作られた用語と思われる。これが違った意味に解釈されがちなことは以前述べたような気がするが、自分で守るためにはそれだけの能力と環境がなければなしえない。つまり、自分で守ることができるようにするだけの社会的な背景を作り出さなければ、無防備のまま大海の中に放り出されるようなもので、それでおぼれた人は100%自己責任と言っているようなものである。しかし、マスコミの記事などをみても、「自分で守る」が目立ち、この点はあまり強調されることがないのは残念である。
 自分の健康を自分で守るためには、自分の健康や医療に関しての行動を自分で決定できて、それを支援してくれる体制がなければ難しい。そして、その体制は100%完璧ということはあり得ないのだから、個人としては努力目標にとどまるしかないかもしれない。むしろ、自分の健康を自分で守るということは、つまるところ、健康は他者がコントロールするものではなく、自分の健康を自分で守ることができる社会を作れと言う警鐘ととるべきであろう。つまり、健康や医療に携わる人たちは(以降、医療人という)、専門家主導ではなく、その社会を作るためのサポート役に徹することが要求されるということであるし、「公」はその社会を作る責任を持っているということになる。こういうことは「住民主役」ということばでしばしば代表される。

 ■決断は情報とその内容を理解する力が前提

 さて、自分のことを自分で決める、というのは当たり前のように思うが、実はそうではない。自分のことを決めるには、決断が必要となる。その場の感情で決めたり、いわれるままに決めたことも決断には違いないが、普通、決断には、情報とその内容を理解する力があることが前提となる。そのプロセスは思ったほど簡単ではない。近年、情報は氾濫しているといわれるが、その内容を理解できることはあまり多くはない。つまり、情報を選択し判断する能力が育っていないのである。また、決断には好き嫌いという要素が当然に入り込んでくる。
 自分ではなく、他人が決めたことに従って、その成果を受け取るという、また、そういう社会でもいいのではないか、という考えもある。自分のことを自分で決めることは、あまりに厳しすぎて、受け入れにくいところがあるのではないか? と言う意見もある。たとえば、性行動を自分で決めて、自分で責任をとると言うことについては、わが国の文化では受け入れにくいのではないか、何らかの規範を示して、導いていく必要があるのではないかという意見をおっしゃった校長先生がいた。これに関する議論はここではしないが、こと健康や医療については、ある程度説明に限界があることは確かである。

 ■確率論は理解が難しい

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト 一つは確率論の問題である。健康にいい行動であるとか、治療法の選択と言ったことに関しては、選択した人にとってはあるかないかの二つに一つであるが、いい行動、とか、いい治療というのは、確率論の上に成り立っている。確率論は、集団を対象としており、現在の医療は、この確率論によって効果を証明することが求められている(Evidence Based Medicine: EBM)。
 ある特定の治療を受けなければ絶対に助からないが、その治療を受ければ絶対に助かるという場合は、100%か0%であって選択の余地はないが、たとえばある進行がんになったとき、治療Aでは5年生存率は60%あるが治療がもとで死ぬことも5%くらいある、別の治療Bでは5年生存率は30%だが治療がもとで死ぬことは0.1%以下である、とあれば、どう選ぶかは迷いが生ずるであろう(たとえば治療Aが手術で、治療Bが薬物療法のような場合)。別の言い方をすれば、治療Bでは7割は5年以内に死んでしまうけど、治療Aでも4割は助からず、5%は手術で死ぬということでもある。別の例を挙げれば、たとえば、ある食品Aをとる習慣がある人とない人では、病気Bになる確率が3倍違うとすれば、食品Aをとることがすごくいいように感じるが、そもそも病気Bが1万人に1人の病気だったとしたら、食品Aをとるとそれが3万人に1人になるだけであって、多くの人は食品Aをとろうがとるまいが、あまり関係はない(なった人には大変であるので、こういう場合は普通、その病気Bになる確率が高い人たちに絞り込んで食品Aをとることが勧められるのである)。このように、確率論というのは実は理解が難しい。
 しかし、普通、人は、絶対を求めるのである。となると、絶対的に「こうすれば大丈夫」という説明に人はなびく。だから、十分に説明する医者よりは、私を信じなさいという医者の方がはやるのである。もっとも、これにはあるオチもつけられている。人間というのはどこかうまくいかないところを皆もっているから、「こうすれば大丈夫」と言われた「指示事項」を100%果たせることは滅多にない。つまりうまくいかなかった場合「私のいうことを守れなかったからそうなったのです。あなたのせいです」と逃げられるオチである。さもなくば、「不幸な例でした」という言い方である。そういうことを言わない医療人は、古いタイプの人間とはいえ、ある意味では尊敬に値する人物かもしれない。
 一方、割り切って考えれば、確率をそのとおり話し、決定は相手の自己責任として押しつければよい。しかし、それは医療人としていいあり方なのか? 患者側に決定できる能力や環境があるとは言えないのに、決定しなければならないのは患者にとってはつらいものであるし、良心的な医療人はこれができなくて悩んでいると思う。こういうところに、説明の難しさがある。
 なかには、確率論を全面に押し立てることによって、選んだのはあなたの意思であるという責任転嫁によって、倫理的・社会的に妥当とは言えないもくろみを正当化しようとする場合もあるかもしれない。これは専門家と一般人との知識差を悪用したものであるが、説明して自分で決めてもらったという形をとって、世間の批判をカモフラージュするものである。

 ■健康や医療の説明事項は内容がかなり高度

<JINNTAさんの著書>
生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー
『生草医者のひとりごと〜おちこぼれ公衆衛生医のエッセー』(保健計画総合研究所刊 税込\1,575)

 次の問題は、健康や医療に関する説明事項は、内容がかなり高度なことである。わかるように説明することが求められるのだが、そのような論調は、実はある程度のインテリジェンスをもった層で語られていることはあまり問題とされていない。つまり、このような議論に参加していない人たちは少なからず存在している。実際、そういう難しいことは説明されてもわからない、いいか悪いか示してほしいといわれたら説明することはできなくなってしまう。だからといって、専門家主導になることが好ましいわけではない。内容が高度という理由で、専門家主導でやるということは、歴史的にみてうまくいっていないからである。
 このように、自分で決めると言うことは、前提条件がかなりたくさん要求されるため、なかなか難しいことなのである。

 ■価値付けを「しない」情報と「された」情報

 情報操作という言葉があるが、判断の材料となる健康や医療に関する情報も、「価値付けをしない情報」を提供することが前提条件となる。しかし、この「価値付けをしない情報」を提供することは、実はなかなか難しい。
 たとえば、ある病気の治療においては、治療法Aと治療法Bがあった場合、そのどちらかしか勧めないか、あるいは不適正にゆがめてどちらかがいいと宣伝するような方法は価値付けされた情報である。
 そもそも、私的な情報発信では、価値付けをして情報を提供することが許されるはずである。反社会的な場合は規制の対象にもなろうが(例:効果のない薬を効果があると言って売れば法的な規制に引っかかる)、いくつか効果がある治療法があって、そのどれを自分が宣伝するかといったことは私的な行為としては普通問題とされない。これらは、公的な立場によって情報を提供する場合に問題となると言ってよいであろう。
 医療人が、価値付けをした情報を提供してよいか? という問題についてどう考えるか? それは医療人が公的な存在なのか、私的な存在なのかという問題が生じてくる。これは非常にあいまいで、ひと言で片づけられない問題かもしれない。
 たとえば、医療人が公的な存在であることを示すものはたくさんある。たとえば医師であれば、医師法に公衆衛生に寄与することが責務として書いてある。だから、法的には紛れもなく公的な存在である。さらに、医療行為は民法上は契約関係であるにしろ、医療人の養成には多く公共財が投入され、医療は非営利とされ、かつ保険診療は公共財によって成り立っており、医療自体が公的なサービスであることは論を待たないであろう。
 しかしながら、わが国のように、自由開業制をとっている以上そこに競争があり(実は、医療人は公的存在とされながら、ライセンスの保護だけで収入の保障はなんらされていない)、ある特定の治療方針を売りにする場合、また、治療成績を向上させるために、ある治療法しか推奨しないし、他の治療法は行わないというということは別に問題とはされないと思われる。ただ、その場合、治療内容や保健指導の内容には、価値付けがされるに違いない。また、医療人自らの信条や宗教上の理由により特定の治療法は全く言及しないと言ったこともあるかもしれない。なお、最終的に患者側が求める治療を行うか行わないかは、医師の裁量権の範囲内と考えられるのが通例で、行わないと判断された場合は、他医を探すことになる。
 この場合、たとえばある病気の治療法はいくつかの種類があり、それぞれがどのような内容でどのような効果が見込まれるのか、といったことが公的に提供されればある程度価値付けしない情報が提供される。どの医療機関がどの治療法を行っているのかであるとか、その医療機関の評価であるとかと言った情報の提供により、選択可能な状態となる。後者については、自己評価を行う医療機関が出てきていることは利用者からみて好ましい。また、セカンドオピニオンが定着しつつあることも、先般の確率論の問題ともあわせて、好ましい傾向であろう。
 この面は、医療提供者と利用者の関係を商行為と同様にとらえてよいのか、それとも協働関係なのか、さらにその協働関係は公(行政等)を巻き込んだものになるのかと言った議論も必要になるので、これ以上深くはふれないことにしたい。

 ■文化的背景や教育

 さいごに、自分のことを自分で決めるという要素のもっと大きいところは、難しいことであるが、やはり文化的背景や教育に帰してしまうところがある。たとえば、自分の「進路」は、果たして自分で決められたのであろうか? その情報は、的確に得られたのであろうか? たぶん、健康や医療に関する情報提供と自己決定と言うことがらも、つまるところは文化や教育に集約されてしまう部分があるのではないかと思われる。この問題は、おりにつけ、これまでのエッセーでふれてきたところである。

[JINNTA/公衆衛生医師]
e-mail jinnta◎nifty.com
◎を@にしてください
JINNTAのホームページ
http://homepage3.nifty.com/hksk/jinnta/


RETURN TO33号目次に戻る