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ボタンの掛け違え3
本日のテーマ[エイズ教育の周辺]

FAIDSスタッフ JINNTA 

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 0.はじめに

エイズ教育なる「ことば」がある。エイズ教育は、学校に勤めている人は、生徒への教育でするものと思い、事業所(職場)にいる人は、従業員の健康管理の一環で取り組むものと思い、地域の保健婦さんは、地域住民にたいして行うものだと感じるわけで、実にいろいろな領域において行われている。しかし、自分がやっている「エイズ教育」は、よそ様のエイズ教育とどう関係してくるのだろうか?

 たとえば、学校の先生がエイズ教育をしているとき、保健所の保健婦や、事業所の衛生管理者がやっているエイズ教育活動を思い浮かべることがあるだろうか? 啓発イベントを行っているNGOのメンバーを、自分たちの仲間だと思い浮かべるだろうか。

 実はエイズ教育とは、エイズに関するあらゆる教育啓発活動を指すと思われる。それはいろいろなシーンで、いろいろな人たちによって展開されている。しかし、それはおのおののつながりに希薄な部分があることは否定できない。同じ目的を持った人たちがどう連帯を持ってゆくか、それがこれからのエイズ教育の課題であり、担っていく人の資質の問題であるといえる。

 同じ目標を持ってエイズに取り組んでいる人たちが、お互いにボタンを掛け違えているのは残念である。その解決のための提案を、自戒を込めて少し行ってみたい。

 1.異文化を理解する

 今、日本のエイズ教育にはいろんな領域の人が従事している。お役所関係だけで例を取ってみても、学校−文部省、保健所−厚生省、職場−労働省。これらはすべて縦割りで行われていて、エイズ教育が話題になる以前から、独自の歴史を持っており、相互の関連や交流はあまりない。日常的な用語すら、同じ用語が領域が違うと全く違う意味に使われているほどで、「翻訳」が必要なほどである。

 たとえば学校の先生のエイズ教育にとって、保健所の医師や保健婦のエイズ教育というのは明らかに異文化である。高校生のエイズ教育には学校での教育と保健所でのエイズ教育があり、保健所にはさらにエイズ教育とは別の系統で思春期の性の事業に関連したものがある。

 従来、学校行政が自主完結型であり、教育という行為は教員免状がないとできないと言う認識があるほどであることを考慮すると、学校の先生からみて医師や保健婦の活動は、多くは「仲間」としてよりは「競合相手」としてとらえられるはずである。逆に保健婦サイドからは、学校は壁が高くてなかなか私たちを受け入れてくれないと言う意見もよく聞かれる。しかし、これでは発展の余地はないのは明らかであって、お互いにいかに異文化を理解できるかということが、エイズ教育を行う者が持つべき資質と言うことになろうかと思われる。実際、一部ではうまく機能しているところがあるが、それは異文化に対する理解がなされようとしていることが多いようである。

 2.仲間を尊重する

エイズ教育に携わるものは、言ってみれば同じ目標をもち、同じ活動をする仲間であるといえる。

 エイズ教育に携わるものは、個人でフリーと言うことは少なく、実際には組織に所属して、その一員としてエイズ教育を行っていることが多い。組織は歯車であることが要求され、ついつい仲間を道具のように扱ってしまうことになるが、お互いを尊重し、「もの」扱いせず、人間扱いすることが重要である。また、お互いに主張すべきところはしなければならないが、お互いの価値観は尊重しなければならない。ことに、ちがう領域の人たちの間の確執は、異文化を理解しないことに加えて、お互いを道具として扱い、価値観を否定することから齟齬を来しておこるのである。

 3.自分の役割や仕事を分析・評価する

自分が行っているエイズ教育はどのような効果をもたらすであろうか、また、どのような問題点を有しているのかを考えてみる必要がある。このとき、その効果は、いかなる印象をもちえたか、また、知識の獲得ということももちろんであるが、最終的には行動に現れてくることになる。たとえば学校の先生が高校生のエイズ教育をしたとすれば、その効果は、数年後、20代の青年の行動に現れてくるといったようなことであるが、これを評価するには自己完結型のサイクルでは不可能であって、他の領域(たとえば地域、職域)からフィードバックをかけないといけないわけである。

 4.本に書いてあることや偉い人が言うことを100%は信じない

極端に言えば、科学というのは本に書いてあること、偉い人が言うことを疑うことから始まると言われる。教育を行おうとする場合、自分のことばで伝えなければならない。それにはいろいろなことがらを自分なりにかみくだき、理解する必要がある。

 すなわち、そのためには、自らの科学的な素養を高めて、アンテナを広げていろいろな情報を得るようにし、いろいろな考え方を学んでゆかなければならないように思われる。すくなくとも「こういうことになっている」「これがあたりまえである」をそのまま伝達することはエイズ教育の態度ではない。特に「正しい知識の普及」というふうに「正しい」という言葉が使われるが、なにが正しいのかと言ったことは、客観的に科学的及び社会的に検証して用いるべきものである。つまり安易には使えない言葉であると認識すべきである。

 5.自分がサービスを求める側になって考えること

 自分がどのような教育を受けたいか、その気持ちを忘れないで。教育する人や立場が、いろんな領域に分かれているのは、教育する側の都合でしかない。あくまでも教育というサービスを受ける側を中心に考えるくせをつけることが大切である。

 6.おわりに

 以上あげたことがらは、エイズ教育だけではなく、「縦割り」の問題点そのものであるかもしれない。それは大きな構造的な壁であるが、エイズ教育は従来の縦割りに比べて、その壁の高さが低いように思われる。実は、エイズ教育の領域で、これらの問題点に風穴をあけたのは、PWHの行動であり、NGO活動であったように思われる。フォーマルな立場ではなく、つまり縦割りからはずれた立場でエイズ教育を行い、それが受け入れられてきた歴史を作ったのである。PWHの活動や、エイズボランティア活動は、教育の世界でも共通言語を有しているといえる。私は、NGOがこれから教育にアプローチすること、その発展を期待している一人である。

JINNTA[FAIDSスタッフ]
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