以前、このコラムで変な診断書というエッセーを書きました(16号)。
今回は、STDの診断書を題材に、感染症と社会について、少しだけ述べてみたいと思います。
■結婚時の健康診断書交換を推奨している法律
ご存じの通り、性病予防法では、結婚の際、健康診断書(内容は「梅毒反応陰性」の診断書)を交換することを推奨している。これと関連して、「結婚のためエイズの検査の陰性の診断書が必要」という相談が時々ある。よく聞いてみると、感染を心配して検査を受けたいというのが動機で、診断書は必要はないのだが、うら若き女性が電話に出たので、恥ずかしくてとっさにそう言ってしまったという後日談を聞いたりする。
■「冠婚葬祭」の本にも書かれているが…
実際には「結婚」の際、STDの診断書の交換ということが行われるのはあまりないように思うが、それだけ、「性病」の診断書の交換というのは意識上にあるらしい。ことに見合いだと、そういう習慣は特に意識せずに行われているのかもしれない。たしかに、「冠婚葬祭」の本では、必ずといっていいほど「健康診断書の交換」が書かれている。そういう本を読んで、診断書を要求されたら、「そういうものか」とストレートに受け入れることになるだろう。私が今まで受けた相談でひどいのになると、結婚相手の家から、梅毒、HIV、B型肝炎をはじめとして、EBウイルスとMRSAがないことを証明してもらえと言われたという話がある。
■「どうして必要だと思うのか」考えて欲しい
結婚のためにSTDの診断書が必要だ、という問いかけには、どうして必要だと思うのか考えてみて欲しいことをお話ししている。
いくつかの論点があり、まず、心配がないのなら受ける必要があるのかという問いかけをする。普通、STDの検査というのは感染の心配があるから受けるのである。つぎに何か心配があり、結婚を機会に確認しておきたいというのなら、希望によって検査をすすめることになるが、それをわざわざ証明しなければならないのかという問いかけをする。つまり、自分の感染の有無を知り、相手を思いやるというのであれば、自分が知っていればよいであろうし、結果を知らせるにしても、お互いによくお話し合いをしていただければ済むことではないか、そこにもし距離があるならこれから結婚して一緒に生活してゆくのなら、そこを埋める努力も必要ではないか、ということである。
つまり、診断書を交換しなければならない状況になっているのは、実際には当事者以外の誰かから要求される場合である。これは検査の強制ではないかということである。あなたのプライバシーが、相手の親戚とか媒酌人などの関係のない人にまで知られることを、あなたはOKしていると言うことですよという問いかけをすることもある。
この場合、見合い結婚の場合少し障壁がある。それは、見合い結婚では、相手を選択する一つのバロメーター、すなわち「性生活」や「病気」に関するバロメーターの一つとして利用するという部分があるからである。それと、やはり「家」思想がある。結婚は当事者の合意のみによってなされるというのが日本の法律であるが、古くから結婚というのは親族や地域社会に足入れするという概念があるので、そこに健康でないものは排除したいという社会防衛意識が働く余地がある。これはSTDに限らず、種々の病気でもそうである。
■感染者排除の意識
これらの診断書は、一見、単なる個人的な利益を得るための民事的なものに思われる。しかし、診断書を交換すること自体、感染者は排除しますよということのうら返しである。たとえば受けることを拒否した場合、それは感染しているから受けないのだと解釈され、結婚話が破談になるかもしれない。つまり、受けたくなければ、結婚という目的が達せられないわけで、受ける側にとっては苦渋の選択になる場合もあるし、自分は陽性であるはずはないだろうと思っていたら、検査結果に異常があって、そこから苦しみを抱える場合もある。これは、B型肝炎ウイルスマーカーなどでは、見られうる現象である。B型肝炎の感染は、母児感染によるものが多く、発病しないことも多いので、本人には心当たりがない場合が大部分である。
■慢性疾患を排除するコミュニティの存在
こういった診断書が存在するのは、慢性の感染症は「一部の特殊な人たち」「自分には関係ない」というところから派生しているものであり、「忌み嫌われた」歴史があるからである。前回のコラムでも書いたが、かつて、慢性感染症の一部は、精神障害、知的障害や先天異常等とともに、優生保護法で排除される存在であった。読者のコミュニティでは実感がないことかもしれないが、障害児が生まれたら「嫁が悪い」と、「家」どうしのトラブルになり、障害児の早期療育を勧めようとしたら「家の恥」と言われ、子どもが療育される機会を逃してしまうようなコミュニティが現実には少なからず存在する。そういうコミュニティだと、慢性感染症は排除されるか、表に出ないように隠し通すしかないであろう。
■結核という病名を告げない医療機関も
たとえば、結核と言う病気は、感染と発病にタイムラグがあり、ほとんどの人は発病せず天寿を全うする。発病にはからだの免疫状態が関係し、それには生活習慣や、免疫低下をおこす状態、ストレスなどの環境が作用する。また、かつては死のイメージが定着していたが、実際には発病しても自然治癒する軽微な場合も多かった。
昭和30年くらいまでは、結核患者さんが多く、排菌している患者さんに接する機会は日常的にあったから、大部分の人は大人になるまでに感染したと推測されている。つまり、高齢者にとっては、結核にはだれでも発病する可能性があり、多くの人にとっては他人事ではないのである。しかし、昔の人は「肺病」と呼ばれることを好まなかった。従って、診療する側も「結核」ではなく、「ろくまく」だとか「はいしんじゅん」という病名を告げてきたのである。結核の場合は、保健所からは、原則として家庭訪問をしていろいろな相談にのるのであるが、今でも、病名を告げていない医療機関が時々あり、患者さんや家族のケアに困ることがある。
■「結核でなく、肺ガンでよかった」
結核は感染症なので、家族内感染をよくおこし、その結果、同一家族内からの発病が多い傾向にある。このことが、かねてから「結核は遺伝病」として誤解されているむきもかなりある。
私は結構、結核に関する活動をしているが、結核予防講演にいくと、
「結核は、昔は『ろくまく』とか『はいしんじゅん』とか言っていました。『自然陽転』は結核に感染したことをしめします。結核は感染しても発病しなければ全く問題はありません。戦前、戦中、戦後直後に青春時代を過ごした人は、菌を出していた患者さんがたくさん街にあふれていましたので、どこかで菌をもらって、大部分の人が感染しているというデータがあります。この『結核菌』は、感染しても胸の中に冬眠状態で閉じこめられていますから、体が弱ることがなければ目が覚めることはありません。発病しないように健康づくりに励みましょう」
というようなお話をする。とたんに顔色が変わる受講者がいる。「ろくまく」や「はいしんじゅん」や「自然陽転」が結核ということに結びつけられることは、実際にはタブーになっているのである。かつて結核は「検診さえ受けていればとにかく安心」とプロパガンダされており、年1回検診を受けることがコミュニティに暮らすための「踏み絵」であった感もあって、その影響も大きいと思われる。
もとより検診は発病を早期にとらえるためのもので、残念ながら感染している人たちを発病させない方法ではない。胸のX線で肺がんが発見され、家族が「『結核』でなくて『肺がん』でよかった、『結核』だったらここには住めなくなる」と言った、というような、笑えない話も数年前には実際にあった。そういう点では、結核予防法というのは、患者さんのフォローとプライバシー配慮に重点が置かれている点で比較的よくできた制度である。もちろんこれとて、いろいろな社会的状況や経験を経て、今日のような制度の運用に変化してきたものである。現在、結核対策での活動は、このような状況を打破するため、感染拡大の防止の他に、患者さんのケアやフォローと知識の普及に多くがさかれている。しかしそれでもまだいろいろな問題は多い。
■優勢思想や差別意識の壁を打ち破る努力を
「変な診断書」は、優生思想や差別意識に根ざしている部分が多い。私たちは科学の力と信念に基づいた良心をもってその壁をうち破る努力をしなければならない。しかし現実の壁は途方もなく厚い。
今の日本は、一方では、人権の擁護をうたいながら、感染者排除につながる検査を法律で勧めているという点が何ともつらい部分である。性病予防法の廃止が目前に迫っているが、「結婚の診断書」は、今後どのような行く末をたどるであろうか。
JINNTA[FAIDSスタッフ]
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