■「人権」の定義は何ともハッキリしない
感染症予防法案の議論などを追っていると、何だか人権というものがわからなくなる。「人権」という言葉は何度も何度も登場するのだけれど、誰もその言葉を定義しては用いていない。
「何だ、お前は人権の定義も知らないのか」とお叱りを受けそうだが、ちょっと調べてみたところでは「人権という概念は、時代や国によって異なるものだ」という、何ともハッキリしない結論に到達してしまった。感染症予防法案の論議でも、ある人は日本国憲法上の人権を指し、ある人はWHOの健康政策上の人権を指している。同じ「人権」という言葉を用いていても、その定義が異なれば、議論が噛み合わないのは当然とも言えよう。ましてや「新しい時代の感染症対策」という『人権』にとって先端的な領域での論議なのであるから。
■必要のない人までを隔離する法案の人権議論
感染症予防法案は、患者・感染者の行動規制に主眼を置いた法律だと言える。しかし、不思議なのは「人権、人権」と叫ばれつつも、患者・感染者の法規制に、ほとんどの人が異を唱えないことである。人権派を自称する人たちからも、「必要最小限」「例外的」などという限定はつけられてはいるが、患者・感染者の強権的な管理の必要性は認められてしまっている。
では、何が論議になっているかというと、それは主に手続論である。厚生省は、もちろん法案の手続規定で十分であるとするのに対し、人権擁護の観点から、もっと厳格な法的手続規定を求める声がぶつかっているというのが現状であろう。
しかし、そもそも隔離などの法的規制が必要なのだろうか。たとえばエボラ出血熱。法案では、最も危険な一類感染症に分類され、第一種感染症指定医療機関へ隔離されることになっている。第一種感染症指定医療機関の病室は、病原体が外部へ流出しないよう密閉され陰圧が保たれ、人権への配慮からインターホンを通じての面会の自由の保障や通信の自由の確保から電話の設置などを義務づけるという。そして、このような設備を充実させるための「資本の投下」こそが感染症対策に必要と強調されている。
けれども、エボラ出血熱は血液感染しかしない病気である。空気感染するわけではないから、病室を陰圧に保って隔離する必要なんて毛頭ないのである。医学的には、血液への接触制限さえすれば、感染予防は達成できるとされている。
ところが、医療関係者の一部からこのような主張がなされていても、誰も耳を貸そうとはしていない。いくら厳格な手続がとられたとしても、隔離の必要がない者を隔離することは、はたして人権の擁護と言えるのだろうか。
たとえ法的規制がなくても、医療現場では、柔軟な接触制限による感染予防措置が図られつつあるというのが現実であろうと思う。例えば水痘症は、感染症法案では、隔離などの必要のない四類感染症に分類される予定である。しかし病態によっては、院内感染防止の観点から、個室への入院などによる接触制限が行われているのが現実である。
では、感染者が、それらの感染予防のための指示に従わなかった場合、どうするのか。これこそが、エイズ予防法のときと同様、強権力の発動による法的規制が必要とされている理由であろう。しかし欧米諸国では、そのように感染者が故意に第三者へ危害を加えるような行動をしたときは、刑法の傷害罪で個別に罰しようという方向性があるように思う。日本のように、患者・感染者だからといって、一律に管理(規制)の網をかぶせるのではなく、ケース・バイ・ケースで対処していこうというものだ。刑事手続に委ねた方が、人権に配慮したより厳格な法的手続が期待できるとも言える。
しかし、こうした考え方は、法案の土台を根底からくつがえすものであり、「どだい通る話ではない」ということらしい。そこで、実現可能な修正を勝ち取るためには手続論、ということになっているのかもしれない。
■「危険」「怖い」が生み出す差別と偏見
それにしても法案での感染症分類は、感染力や重篤性もしくは治療法が確立しているか否かという一見科学的な、その実あいまいな基準によって分類することで、新たな差別をもたらしている気がする。
感染力が強く、感染すると死亡率が高く、治療法も確立していない病気は、危険な怖い病気だ。だから法規制が必要なのだ…という、いわば脅しの論理を展開しているのが、厚生省などの法案支持者の考え方だ。これに対してHIV感染症は、感染力が弱く、医学医療の進歩により慢性疾患ともいえる状態になりつつあり、それゆえ法規制は必要ないとの主張が当然のごとく語られている。そして、HIV感染症が行動規制を伴う指定感染症に将来指定されることがないよう、何とか行動規制を伴う『危険な』感染症とHIV感染症との間の線引きをしようとの主張も一部に見られたのである。(ちなみに、厚生省はHIV感染症に対し指定感染症に指定して行動規制をかけるなどということは、まったく考えていないと言明している)
「危険」とか「怖い」といった情緒的な脅しの論理は、必然的に差別・偏見につながる。たとえ、その背景に、感染力や重篤性といった科学的根拠があったとしてもである。感染力が強かったり、根治療法が確立していなくて死亡率が高かったりしたら、差別してもいいのだろうか。
公害であった水俣病や薬害であったスモンなどは、当初、伝染病説が出て、それが差別・偏見に大きくつながっていったと思う。伝染病説を主張し続ける被告企業に責任を負わせるためでもあるが、原告らは伝染病でないことを強調していく。それは、伝染病であれば差別されても仕方のない日本の歴史的経緯に根差しているようにも感じる。らい予防法は廃止されたが、謝罪されたのは根治療法が確立した後もなお法律の見直しが遅れたことにある。すなわち、根治療法が確立していなければ、ハンセン病のように感染だけでは発病しない病気であっても隔離などの差別的措置が是認されることを意味する。間違いなく感染症で、かつ根治療法のないエイズは、いわば差別されても仕方のない『業』を伴って登場してきたと言えよう。
私たちは常に他者との線引きをして、身の安全を図ってきたように思う。それは何も健常者と病者の間の線引きだけではない。病者の間でも線引きが行われてきたのである。例えば、HIVの感染力の弱さを表現するために、いまだに「B型肝炎ウイルスより感染力が小さい」ということが言われる。それは学問的真実ではあるが、そのことによって肝炎患者・感染者への差別・偏見が助長されていることを忘れてはならない。B型肝炎ウイルスは感染力も弱く、その感染予防対策も確立している。感染力も弱く感染予防も容易なB型肝炎と同じように、HIVも心配する必要はないんだよ…という他の疾患への共感がなければ、それは単に差別の線引きをしているに過ぎない。
「エボラ出血熱は怖い」と連呼することに唯一かみついたのが、家西議員だっだ。エイズもエボラと同じように「怖い、怖い」と連呼され、それが差別・偏見につながっていった経緯を踏まえ、正しい知識の普及の重要性を指摘している。そこには、HIV感染者として日本で初めてカミングアウトされた赤瀬さんの「あたりまえに生きたい」との想いから続く、家西議員の「人間として扱われたいだけなんだ」との信条が垣間見られ、(まだ見ぬ)エボラ出血熱患者への共感が感じられたように思う。
■弱者への配慮を欠いた権利主張の正当性とは
HIV感染者への告知の是非に関する論議でも、常に言われ続けたのが「エイズは、ガンと違って感染する病気なんだから」という主張である。これを聞くたびに私は「じゃあ、感染しない病気は告知しなくていいの? ガンは告知しなくていいの?」と思ってしまう。
感染症であろうとなかろうと、医療情報をコントロールする権利はプライバシー権に属し、患者本人のものである…という考え方がある。HIV不当解雇訴訟の判決でも認められた考え方だ。少なくともガンだって、本人に告知しないまでも患者の家族には告知され、医療者側だけが情報を秘匿するなんてことはない。
また、告知されてこそ、患者本人が治療に積極的に参画できるようになり、その方が十分な治療が可能となり、治療効果も上がるのだ…という主張もある。ガンの告知が推進されつつあるのも、こうした理由があるからだ。
ところが、こういった患者の権利の確立を目指しているはずの人たちから、なぜか「エイズはガンと違って感染する病気なんだから、本人告知は欠かせない」ということが強調された。感染者本人が主張することも多い。たしかに二次感染の防止には本人告知が有効な手段だ。しかしそれはあくまで、社会防衛的発想である(社会防衛が悪いとは思わないが)。このような発想に立てば、献血者の間に感染者が見つかった場合にも、本人への告知を推進しようという立場につながる。検査前カウンセリングなんてなくても、発見次第どんどん告知しよう。感染者が子供をつくるなんてもってのほかだ。こうした主張につながるのではないか。
血友病患者に非告知の方針がとられていた八〇年代、自らが感染していないことを知ったある患者が医師に「全員に告知しないのは、感染していない者の人権侵害だ」と食ってかかったことがあるという。感染していない人にだけ検査結果を通知しても、感染している人にバレてしまうため、感染していない人に対しても告知していなかったからだ。
感染してしまった患者のことを第一に考えていたその医師は、ますます態度を硬化させた。今でもHIVの感染告知には、カウンセリング体制など十分なサポートが必要とされている。何でもかんでも告知してしまえばいい…という話ではないのである。当時、そのようなサポート体制は、社会的にも医療機関としても、望むべくもない状況にあった。
もちろん、非告知の方針が、結果として、本人にとっても家族にとっても、さらなる被害を生んでしまったことは事実である。しかし、二次感染防止も含め非感染者の権利を言い立てるのと、感染者の精神的動揺を考え告知を躊躇してしまったことの、どちらに共感するかと言われれば、個人的には後者である。弱者への配慮を欠いた権利主張に正当性を感じることはできない。
■HIV感染者と発症者との線引きによる不幸
「HIV感染とエイズとは違って…」という主張も、いまだによく聞く表現だ。エイズ・パニックが生じていたころ、マスコミでは盛んにカポジ肉腫ができてやせ衰えたエイズ患者の映像を流し、それが感染者への差別・偏見を助長したとも言われる。それに対抗する形で、HIVとエイズの違いが強調されてきた。「HIV感染者は、ただちにエイズを発症し、あんなグロテスクになるわけではないんだ」「HIV感染者は、見かけではわからない、普通の人間なんだ」といった主張だったようにも思う。
あの差別・偏見の嵐の中での戦略としては、必ずしも誤っていたとは思わないが、カポジ肉腫を発症する患者もやせ衰えていく患者がいるのも事実である。今もなお、発症してしまった患者への差別・偏見を動かしがたいものとして、感染者と発症者との間の線引きに躍起になるのはいかがなものだろう。少なくとも医学的には「HIV感染症」として、感染直後から「患者」として扱われるべきものとなりつつあるように思うのだ。
感染者が発症すると多大な精神的ショックを受けるのは、無意識のうちにエイズ患者への差別意識が感染者にも根づいてしまっているから、という気がする。発症前と発症後では、肉体的苦痛のあるなしという違いがあるのは当然でもあるが、「アメリカではCD4が二〇〇を切ると発症で」という感染者からの主張は何度も耳にした。アメリカと同様に、発症基準を引き上げることで、もっと早い段階から社会援助を受けようとの政治的意図からスタートした主張であった。にもかかわらず、CD4が二〇〇を切ったときの、感染者の精神的ダメージは、何なんだろうか。二〇〇を超えていた昨日までの自分と、二〇〇を切った今日の自分と、どれほど肉体的断絶があると言うのだろうか。
■血液を媒介にした感染をまったく想定していない
現行のエイズ予防法は、特別の場合を除いて、患者・感染者の氏名の報告までは義務づけていない。しかし、献血血液の安全性確保の観点から、患者・感染者に献血歴があった場合、任意で氏名の報告をしてもらっているというのが現実のようだ。ウインドウ・ピリオドといって、感染性があっても検査ではチェックできない期間があるからである。
エイズと違い、法律の規定がなく予算事業でサーベイランス(発生動向調査)を行っているクロイツフェルト・ヤコブ病も同様だ。報告された氏名は、日赤の献血者データベースで照合し、汚染されている可能性のある血液製剤を回収しようとしているのである。これはルック・バック(追跡調査)方式と言われ、薬害エイズを機に世界各国で盛り上がった血液の安全性確保対策の大きな柱として期待されているものである。
だが、感染症予防法案では、血液を媒介にした感染などという事態は、エイズ予防法と同様にまったく想定されていない。HIV感染症は、プライバシー保護の観点から、患者・感染者の氏名は報告されないことになっている。
「今までも任意で氏名の報告をしてもらってきたんだから、法律に義務づけなくても、これからも任意でやっていけばいいんじゃない」という考え方もあるだろう。しかし、論議すらなされないというのは、なぜなんだろう。
本当に、血液媒介も含めて感染症の拡大防止を図るつもりがあるのか? 本当に、患者・感染者のプライバシーを含む人権を守るつもりがあるのだろうか? エイズ予防法の教訓どころか、薬害エイズの教訓すら生かされていない気がするのである。
■無意識のうちに加害者になってしまっては…
エイズを通じて少なからず人権の問題にかかわってきたはずの私たちであったが、知らず知らずのうちに『加害者』になってしまってはいないだろうか。
[草田央]
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