■禁断のネタバレを…
今年の3月11日、草月ホールでコント・ライブを見た。
「宇田川フリーコースターズ」、バナナマンとおぎやはぎのユニットで、4人でやる舞台である。2組とも私は好きな芸人である。バナナマンはさりげないけどセリフも動きもものすごく達者だし、おぎやはぎは独特の力の抜けた雰囲気持ってるし。
この日のネタはどれもよくできていて、4人の息もぴったりで、とても楽しいライブだったのだ。バナナマンは、単独だと奇妙なシチュエーションやブラックな展開があったりして、そこがいいのだが、おぎやはぎといっしょのときは、その雰囲気が感染したように力が抜けている。おぎやはぎはその力の抜け方がいいのだが、単独だと抜けっぱなしになってしまうときがあるのだが、バナナマンと組むと、ちゃんと形になっている。こうして、見るほうもリラックスできる、4人ならではの安定したステージになる。
「病院の待合室」とか「二万円」とかもうすごく好きなネタなのだが、ここではタクシー会社のネタを紹介しようかと。
というわけで、ここから、お笑い業界禁断のネタバレをやる。ごめん。読みたくない人はページを飛ばしましょう。
それから、バナナマンやおぎやはぎを知らない方々、コントを見慣れていない方々のために言い添えておくと。これはもうこの4人がやるゆえの3次元の「おもしろさ」抜きには成立しないものである。ここで言葉で説明しても、それはぜんぜん伝わらないことはご了承のうえ、お読みください。
<木谷麦子さんの主な著書>
『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』編著(夏目書房、1999年、2,600円)
『ある日ぼくは「AIDS」と出会った』(ポプラ社、1998年、1,400円)
・タクシー会社のネタ
タクシー会社の運転手たち。
一人(日村)が恋わずらいをしている。他の二人(矢作と設楽)がおせっかいにも相手を聞きだし、それが4人目(小木)だとわかる。男同士ですね。二人、一瞬ひくものの、「そういうこともあるんだね〜」
しかし日村は、自分はホモではないと主張、「男は女を愛すべきだし、女は男を愛すべきなんでしょ!」とハイテンションで言いまくるのを、他の二人が茫然と見ているという図式。
日村は小木に明らかに恋愛感情もっているのに、それを認めようとせずに、「ホモではな〜い!」を連発。まわりの方が「え? でもそれは……」「断じてホモではな〜い!」
ここで、おもしろいのは、設楽の一言。
「日村さんはホモかホモでないかにすごくこだわってるんですけど、それはどうでもいいんです」
そして設楽と矢作二人して、「小木さんが気になるんでしょ?」「いっしょに何がしたいですか?」と聞いていく。
ここで日村が「ホモではな〜い!」を連発しながら、二人が聞いている以上に、いっしょにいたがったりさわりたがったりしている、というところで笑いをとっていく。
そして、日村「私はただ、小木さんのことが……」
矢作「……好きなんでしょ?」で、おせっかいの二人は、めげることなきおせっかいぶりを発揮して、小木へのキューピッド役を買って出る。
設楽「小木さんのことを好きだという人がいるんですが」
小木「すみません。私はホモセクシュアルなんで、女性には興味がないんです」
設楽「え? いまなんて言いました?」
小木「私はホモセクシュアルだと言いました」で、二人は「こんなこともあるんだね〜!」と驚き、日村は「自分でいいます!」と出てきて告白。
でも、小木曰く「私はホモセクシュアルですが、日村さんは好みじゃない」と展開。
どうしてくれるんだといわんばかりに矢作と設楽を振り返る日村、え? おれたちのせい? という表情の設楽と矢作。
ま、最後に矢作と設楽が、「小木さん、自分がホモであることを一点の曇りもなく言ってのけたね。潔い、あれはもうホモではない、男らしい!」 で、びーびー泣いてる日村に「あれは女々しい!」と言って終わる。
・「ホモを笑いものにする」ことでは成立していない
まあ、このラストが突っ込めるといえば突っ込めるが、これはコントのタイプとして、「オチ」より「経過」を見せる系統にあるので、お笑いファンとしては流しちゃうところである。
で、私は一お笑いファンとして、このコントが好きであったが、セクシュアリティ屋さんとしても、ちょっとおもしろいと思った。
「同性愛者を笑いものにする」という芸と観客について批判があったわけだが、さて、このコントはもはや「ホモを笑いものにする」ことでは成立していない。
ここで笑いものになっているのは、「ホモであることを否定しているホモ」である。
そして、それを支えているコントのつくりは、「典型的なホモイメージと、それを見下すヘテロ役」ではないのである。
まず、日村と小木はどちらも一般的ホモイメージ=オネエまがいの言動はしない。日村の言動は笑いの対象になっているが、それはそもそも日村だから、である(^ ^ ;
彼の売りは、世にも奇妙な日村さんであることである。
なにしろ、日村「言ってはいけない恋だから……」
設楽「え? それはつまり、あの、妖怪が人間の女の子に恋しちゃって、身を引くっていう……」妖怪の前にはホモなんて、「特殊」度がぜんぜん日常的である(それにしつこいようだが、日村は奇妙なルックスで売ってるふりをしつつ、ものすごく巧いのである)。
そして、おせっかいのうちの一人、日村の相手が小木と知って一瞬飛びのく矢作、これがそもそもヘンなやつなのである(それが彼のいいところ〜、なのだが)。
つまり日村はホモ役やってようが、日村であることで笑わせているだけであり、フツーの側の矢作がふつーにフツーじゃないのである。
そして、あまり出てこない小木は、「落ち着いた人」というイメージで語られ、「笑いもの」からは最も遠い。はきはきと「私はホモセクシュアルですから」というところでは笑いを取るが、それはコントの中のセリフどおり、予想外の「潔さ」、そのナチュラルさに笑っちゃうのである。
これをナチュラルに言うことで笑いを取れるということはそれがまだ「意外性」の範疇にあることを表していると思うが、しかし、一度笑ったその後は、登場人物たちと同じく、観客も小木についてはもう納得してしまう。
笑えるのは、責めるような日村の視線と、それを受けてぼそぼそ言い合うおせっかい二人組みの様子で、ここはもうホモだからどうだじゃなくて、コントの王道、人間の小っちゃな勝手さの悲喜劇をちらりと見せているところでおかしいのだろう。
・世の中すこうし変わってきましたねえ
この全体のナチュラルさ。
作るほうもそうやってつくり、観客もそうやってみている。世の中すこうし変わってきましたねえ、と思ったものである。
まあ、草月ホールで2日間だけのライヴだから、延べ千人程度だけが見たコントではある。その後衛星放送で流れたので、それで見た人もいると思うが、衛星放送でバナナマンとおぎやはぎを見る人はマニアに片足の親指突っ込んでいるといえばそれまでかも。
4人は、ありがちなライトなホモネタ織り込んで、「おれ、ホモじゃないからね」というパターンもやっているし(バナナマンの方は単独でホモネタやってるの見たことないが)、べつに「意識の高い」人が、あえてナチュラルなコントをやろうと思っているわけじゃないだろう。
この感じ。
この連載の最初に、70年代と現在の「女性」にまつわる「感覚」レベルの変化について書いた。女性が政治ニュースを読むことのどこがめずらしいんだか、そのときを知らない人たちは「感覚」で理解できまい。それ以前、団塊の世代が若者であったとき、男女のカップルが対等な口をきくというので「友達夫婦」という言葉が世に流通していたなんて、その時代に子どもだった私でさえちょっと不思議な気がする。そうした変化が「ホモ」にも出てきているんではないだろうか。
ちょっと関係ないけど、先日授業で80年代の話をしていて、校内暴力の話になったところ、「先生、スケバンって、実在したの?」という質問が出た。その子はコントやマンガの中のスケバンしか知らない。うーむ。昭和は遠くなりにけり。ってか、「実在」って……そういう用語での認識なのか?
・教室にいても感じる「感覚の変化」
その「感覚の変化」「ナチュラルさ」は、教室にいても感じる。
私は1988年から「同性愛」の授業をしている。初期の頃、「同性愛」というと即座に「気持ちわるい」という反応が必ず出ていたし、コミュニティーの話をしても、「やだー、レズだけで集まって何やってんの!?」という反応があったこともある。
だが、それを書いている私がすでにちょっと遠い目、である。16年目というと、もう時代の一つのサイクルが回ったのである(キャー、来年には、私が同性愛の授業を始めた年に生まれたコたちにその授業やるわけだ〜。サイクル回ってるはずである)。
まあ、今年も相変わらず「ホモとゲイとオカマはどうちがうの?」的質問は出たし、「あの先生は元レズだ」という噂も陰では健在のようだが。
まあ、話がすんなり通じるようになってきても、まだまだ私の仕事はあるということかもしれない。
■「教室に同性愛者がいたら、どうすればいいと思いますか?」
かわったといえるかどうかわからないが、今年の3年生は、なぜか男どもが「先生、ホモの話して!」と元気にリクエストするのである。これはちょっとめずらしい。セクシュアリティ系の話は何によらず、基本的に女の子が積極的な場合が多かったのだが。
さて、ここで考えること。
数年前、某所でセクシュアリティの話をしたとき、会場から質問が出た。
「生徒に同性愛者がいたらどうするんですか?」
さて、彼はどういう答えを望んでいたのだろうか。
この問いを、いまここで読者に投げかけてみたい。
「教室に同性愛者がいたら、どうすればいいと思いますか?」
返答がもらえたら、それらすべてを私は応用するツモリである。
・小木君も日村君も矢作君も設楽君もいる教室で
実際、現在進行形で、私は教室でセクシュアリティの話をする機会を持ち続けているのだが、図式化して言って、教室には、コントの役柄での小木君もいれば日村君もいるのである。また、矢作君もいるのである。
小木君はまあ、こちらがどうしようともあまり変わらないだろうが、高校生の小木君は情報量が少ないことも考えられるから、いろいろ話し合ったりできれば、そのほうがいいだろう。
曲者は矢作君である。すぐに他人を詮索したり、おせっかいを焼いたり、自己中な反応をしたり、無神経だったりしつつ愛すべきキャラなのであるが、こいつが教室にいるところで同性愛の話をした場合、そういうペースで騒ぎたてるのはありがちなことだ。ちゃんと時間をかけて納得すれば、「小木さんが好きなんでしょ?」になっちゃうわけだが、余分な騒ぎはとりあえずするタイプである。
こういう矢作君がいても小木君ならだいじょうぶだろうが、日村君にとっては心臓に悪いかもしれない。
コントでは、いい意味で「ふつうの人」である設楽がいて、バランスをとっていた。現実の教室にも設楽君はいるものであるが、ここで矢作君と設楽君の人数と力関係によって、教室の反応はまったく変わってくるのである。
だから、「教室に同性愛者がいたらどうするのか」という問には、単純には答えられない。──という答えをそのときもしたと思うのだが。
・私が伝えたいのは個々の多様性でもある
ちなみに私の教室に同性愛者がいたことはある。一度ならず。
一点の曇りもなく自分が同性愛者だと教室で言う小木君もいたし、自分を肯定できないまま私だけに同性の話ばかりしてきた日村君もいた。
私がこのようにカウントできるのは、私に直接言ってきた場合と、それからせいぜい本人がそれらしい言動をしている場合である。それ以外の場合は、わからない。わからないからといっていないことにはならないわけで、私は基本的に、あらゆる種類のセクシュアリティの学生がいるという前提で授業することに「慣れ」るようにした。
そして、あらゆる種類、といったが、そうした学問的分野においてあらゆる、であるだけでなく、個人個人によって「当事者」であっても考え方や感じ方がちがうのだ。
私が教室で伝えたいのはそのこと(個々の多様性)でもある。
・「当事者」同士でさえ、べつのニーズを持ち、べつの反応を返してくる
教室には小木君もいれば日村君もいるとすれば、「教室にいる同性愛者」として、彼らのニーズはちがうのではないか?
たとえば、この原稿の前半で、私はなんのことわりもなくホモホモと連発しているが、この用語についてだって、同性愛者でもいろいろなアドバイスをくれるものである。
ホモ、レズは差別用語だと教えるべきだと言う人、とりあえず学生が知っている言葉で言えばいいという人、自分にとってはホモという言葉のほうが自然だという人。
この原稿でホモと使っているのは、これの2番目に近い。実際にコントでホモという言葉を使っていたから、そのまま使っているだけである。この場合大事なのは中身であって用語ではない、とも考える。
で、授業の時には、最低上記3種の「当事者の言葉」は学生に伝えるようにしている。
言葉一つとってもこうなのだから、じゃあ授業でどうしてほしいのかも、当事者によっていろいろ違う。いろいろ違っていて当たり前で、ちがっているということを伝えるのだと言いつつ……。
教室で行うことの難しさは実はここにある。
たとえば、こういう話をして、「ホモホモ」とみんながもりあがったとしよう、悪く言えば物見高く、よく言えば新しいことを知る興奮にもりあがったとしよう。そのとき、小木君なら、その騒ぎを聞き流しながら、自分も新しい知識を得ようとしたり、考えを述べたりするかもしれない。日村君は、そのもりあがりで、自分のセクシュアリティが「ばれる」のではないか、とハラハラするかもしれない。小木君は教師にもっとやってほしいと思って質問などしちゃったりし、日村君はそういう話題を出すこと自体やめてほしいと思うのである。「当事者」同士でさえ、べつのニーズを持ち、べつの反応を返してくる。
さて、これが私の問題提起である。
こういうとき、私はどうすればいいと思いますか?
最初の質問をくれた人は、ゲイだったと推察している。そして彼は、「教室にいる同性愛者」として自分を想定して質問していたと思う。
それと同じことを、学生もやるのである。一人一人が、「教室にいる同性愛者」は自分だと思っている。そして、それぞれが自分のニーズを訴えてきたりするのである。それは必ずしも一致しない。
さて、私はどうしましょう?。
・かならずしも一致しないニーズ。さて、私はどうしましょう?
現実問題、私は常に「自分のやり方」でやっている。
私は「差別されている同性愛者の方々を支援する良心的なヘテロ」ではないからだ。前号で書いたとおり、「ふつーであることに疑問を感じ、新しい視点を得ていくことをおもしろいと思っているヒト」であるにすぎない。
他のあらゆるテーマがそうであるように、セクシュアリティの授業も、教室という場所、授業という時間、そして私の芸風、この三要素からなりたっているパフォーマンスであるのである。
どうしてわざわざこういうタンカのきり方をするかというと、「ヘテロ教師」と一くくりにして啓蒙しようと考える当事者にも出会ったからである。
ごめん。私はセクシュアリティに関心がある以前に「個人」に関心がある。「ゲイ」も「ヘテロ」も一般名詞で認識するのは便宜的なものでしかないと思っているから、だからこっちもくくらないけど、こっちのこともくくらないでくれる? と思うわけである。
そして実際、私の教室にいた小木君たち日村君たちの中には、「レズ」「バイ」「女装の人たち」のことを「理解できない」と嫌悪の表情で言う人もいたわけである。さらに「女性はペニスがないから欠落感を持って生きている」というどこのオヤジかと思う発言をする若き日村君さえいたのである。ふー。
彼らは「教室にいる同性愛者」としてその存在を守られるべき部分を持ちつつ、他者への認識を啓かれなければならない保守的感覚の持ち主でもあったわけである。
それこそ、「笑いものにされる同性愛者と笑いものにしている異性愛者」という一方的で単純な構図は、旧い安易なコントの中にだけ存在するもので、現実の教室はそういうわけにはいかんのであるな、これが。
・「当事者はこう思っている」という論拠
それから、こんなことも経験したことがある。
異性愛者同士が、「カミングアウトの是非」について話し合っている。それぞれが「当事者はこう思っている」ということを論拠にして、反対の立場で議論している。
んー。片方は小木君の友達で、片方は日村君の友達だったんだよね。
私はたまたまその小木君もその日村君も知っていたので、このときにこの構造に気づくことができた。
「当事者はこう思っている」という、二人のヘテロ・セクシュアルそれぞれの言っていることはまったくそのとおりだ。ただ、一人もしくは一つの傾向を論拠にしていると、結局べつの「当事者」を否定することになってしまうわけだ。
まあ、自分の気の合う人の味方をする、というのは自然なことだからいいんだけど。
でもそれは、自分の知っている人だけが「当事者」であるかのように思い込んでしまうこととはちがう。
違うタイプがいることを認識した上で、自分が「好きな」「共感できる」相手を選んでいくのは当然のことなのだが。
・「自分の実感を追おうとして発している言葉か」どうかが問題なのだ
一つだけ言っておくと、教室がおきらくなホモホモ盛り上がり状態になったときに、これは同性愛者の人権の問題なのだから、真剣に話し合いましょう、という啓蒙的な持っていきかたは、私はしない。そう言ってほしいと思っている当事者の学生が教室にいる場合もあると思うが、そこには気ぃ使いつつ、それはやらない。マジョリティに対して、そういうもっていきかたが限界があることがわかっているからだ。
また、マジョリティの側も私にとっては学生であり、彼らの脳細胞を動かしてやることが教師の仕事だからだ。前にも書いたが、教育は洗脳ではないから、こちらが「正しい答え」を持っていては成立しない。
私の国語の授業では、「自分の実感を伴わない言葉」は価値を持たない。自分と異質な立場も理解すべきだと思います、という「答え方」は、再提出もんである。たとえ「差別的」な発言であったとしても、自分の実感ととりくもうとしている言葉こそが、大切なのである。
私がセクシュアル・マイノリティというテーマに関心を持ったのも、その、ふつーからは抑圧されている「実感の言葉」を聞きたかったからなのだから。それが「誰の言葉か」が大事なのではなく、「その人が自分の実感を追おうとして発している言葉か」どうかが問題なのだ。それが私式「国語の先生」なのである。
誤字脱字に突っ込みを入れるのが本職なんじゃないんだよ。
・「問題あるんじゃない」という感覚も自然なものとして受け入れたい
「君の席」というライヴが昨年あった。バナナマン+おぎやはぎ+ラーメンズの3組6人でのユニットである。その中の一つのコントで、こんなやりとりがあった。
矢作「え、おまえ、黒人と結婚するのは問題ないの?」
小木「ないよ、ぜんぜん問題ないよ」
矢作「あー、そうなのか」ここで彼らが「黒人と結婚するのに問題があると感じる感覚」を無視しないところが、結構好きである(ここでもそういうセンスを持っているキャラを演じるのは矢作だ)。
セクシュアリティについても、抵抗感や「問題あるんじゃない?」という感覚は、それもまた自然なものとして受け入れる授業でありたい。
それで自然に、「すきなんでしょ?」「あー、そうなのか」に流れていけば、それがリソーである。
教室の矢作君たちはコントを演じる矢作ほど話が早くはないのだが。
そして木谷はコントの設楽や小木のようにバランス取れていず、けっこう熱くなっちゃったりするので、なかなかうまくいかないのだが。
・いつでも変化できる柔らかな認識を持つこと
去年、とあるところの雑談で、初対面の人に、私って性教育やってるヒトなんですよ、同性愛とかの授業してるんですよ、という話をした。
むぎ「こないだ卒業生が来たんですよね、10年前の。それで、同性愛の授業覚えてて、こんな内容だったって話すんだけど、こっちとしてはまだ情報や認識が未熟だった時点での授業だから。ごめん、あのときはこういったけど……って、訂正したい気分で」
相手「え? でも、10年前の授業をおぼえてるってこと自体がすごいですよ! どんな授業したんですか?」言われて見ればそのとおりだ。
おぼえている、ということ。そういう授業をやった、という印象的な記憶。それだけでずいぶんと有効ではないか。
卒業生たちはこういっている。
「社会に出てから同性愛者に出会ったけど、授業でやってたから、あわてなかったよ。最初、『おー、授業でやったことが現実に!』って思ったけど、それだけ」
「いっしょに授業受けてた人たちには、カミングアウトするのが楽なんだ、いちいち説明しなくていいから」
彼らの反応は、どちらもとても自然だと思う。
宇田川フリーコースターズのコントを見てると、何も私がやらなくても、世の中そういうふうに動いてきてるじゃないかとも思っちゃうのだが。
またつい最近、教育現場にいる人たちに、セクシュアリティの多様性について話す機会があった。ニュースなどで「性同一性障害」などをなんとなく聞いてはいても、まとまった知識を得るのは初めてという人がほとんどだった。短時間にまとめたからすぐに飲み込むのはたいへんだったと思うが、よく耳を傾けてもらえた。そして、最後にこんなつぶやきが出た。「実際に生徒に性同一性障害などの人がいたら、どうしてあげればいいんだろう」
それは……それらのことに抵抗感を持たないこと、今もっている情報で決め付けないこと、いつでも変化できる柔らかな認識を持つこと……抽象的に聞こえるかもしれないが、結局それが一番現実に対応できることなのだと、そのときあらためて思ったのだった。
[木谷麦子]
セクシュアリティ入門[4] セクシュアリティ入門[6]