■めざせこういうばばあ
前回の文章が私事で終わったので、今回はリレー(?)で、私事で始めてみよう。
昨年11月、長野大学社会福祉学部の旭洋一郎教授のお招きで、福祉に携わりたいと考えている大学生たちに、「セクシュアリティの多様性」について話をした。
その数日前、ちょうど伯母から電話がかかってきて、「今度長野に行く」という話題になった。「何をしに行くの?」と聞かれて、ちょっと迷った。伯母は81歳である。「年齢が高くなるほどセクシュアリティの多様性については頑なである」という定説が私の頭をよぎり、ややためらった。以下、そのときの会話。
むぎ「んーと、セクシュアリティの多様性についての話をしに行くの」
<木谷麦子さんの主な著書>
『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』編著(夏目書房、1999年、2,600円)
『ある日ぼくは「AIDS」と出会った』(ポプラ社、1998年、1,400円)
伯母「セクシュアリティ?」
むぎ「性同一性障害とか、同性愛とか」
伯母「性同一性障害って、ニュースで見たことあるわ。むぎちゃん、そういうこと関心あるの?」
むぎ「んー、もう十年くらいやってる」
伯母「そう、おもしろいテーマよね。おもしろいって言ったら語弊があるかもしれないけど、そういうことって、きっと大昔からあったのに、今までちゃんと認識されなかったことなんでしょう?」
むぎ「うん、きっとそうだと思う」
伯母「新しい認識を得ていくのって、おもしろいことよね」
むぎ「そう、そうなの! おばちゃん、さすがだねえ。こういう話すると、引いちゃう人もいるのに」
伯母「あら、なんで引いちゃうの? だって、大事なことでしょう? その人たちの……人権っていうのかしら、そういうことにも関わってくるわけでしょう?」
むぎ「そう! そうなの!」
ごめん、おばちゃん。私にも偏見がありました。
老人は頭がカタイと思ってました。
亡くなった彼女の妹、私の母にはこういう話をしていたし、母は実際にTS※1に会ってもべつに珍しがりもしなかった。でもね、うちの母と伯母は仲が良かったけど、タイプが違った。母は、学校の勉強ができなくて、ゲージュツ系オリジナリティの人だった。伯母は、ピカピカの優等生で、戦前の名門女学校を首席で卒業しております。しかも、母のほうは、その後もそこそこ波乱な人生。相続の関係で「原戸籍までさかのぼってそろえ」たら、7枚もあった(だぁから戸籍制度なんか嫌いだー! と改めて思った)。そのそこそこ波乱の中には、彼女の世代として「フツー」じゃなかったことも入っていたわけで。
だから、なんとなく、「フツーじゃない」母なら多様性に免疫があって、「優等生」の伯母は保守的なんじゃないかって思ってた。
「若者よ、新しい場所に立ってみよう、このばーさんみたいに」と言えるばばあに私はなりたい……前回、最後にそう書いたのだったが、そういうばばあはすでにいたのだった。ごめん。未老人の不遜であった。私のほうこそ頭が固い。うー。
※1 TS──トランス・セクシュアルの略。体の性別と心の性別が合っていない人。
・自分のとは別種の「フツーじゃなさ」
あとで考えたら、伯母の子ども、私の一回り上のイトコは、「不登校」「拒食症」などの言葉が出回る何十年も前に、ちゃーんとそういうことやってたのだった。おばさんの人生も、まあまあ「フツー」じゃなかったわけだー。
しかし、そうであったとしても、自分の「フツーじゃなさ」と別種の「フツーじゃなさ」に対して同じように柔軟でいられるかというと、人間なかなかそうは行かないこともある。それができる伯母ちゃんは、ただの勉強ができる優等生じゃなくて、ほんとうの意味で「知的」な人なんだなあと、いまごろ気づく不肖の姪。
ああ、ほんと、めざせこういうばばあ。
■お題‥ヘテロがどうしてセクシュアリティのことをやるのか
「木谷さんはヘテロなのに、どうしてセクシュアリティの問題をいっしょうけんめいやるんだろう?」
前回書いた、AGP(同性愛者医療・福祉・教育・カウンセリング専門家会議)での話の後、会員同士での意見交換の載っているニュースレターをいただいた。その中に、そういう疑問が載せられていた。
前号で、「おもしろくてトクにならなきゃ、あたしゃやらねぇぜ」と尻ィまくっときながらいまだにこんな原稿書いてるしね、そら確かに疑問だわ、自分でも。
その問いかけと、セクシュアリティに無関係なささやかなできごと、その二つをきっかけとして、それに自分なりの答えが出た。
今回のお題はそれである。
ヘテロなのに、なぜ「セクシュアリティの多様性(それは多く「セクシュアルマイノリティの問題」と目される)をやるのか。
第2回に書いたかなあ「同性愛もいいけど、自分と関係ないところでやってほしい」とか、そういうのがムカつくのはなぜか。
あるゲイバーにMtF※2と行ったとき、マスターに「女は奇形が好きなのよ」と言われて、「チガウ」と思ったのはなぜか。
などなど。
すべて、根は同じところにある。
※2 MtF──Male to Femaleの略。体が男性で心が女性である人のこと。
■出発はうらみつらみ?
さて、今回自分で発見したことを書く前に、ひとつ確認のために書いておこうと思う。
そのAGPのニュースレターにもふれられていたところで、まあ、ありがちなケースに私も入っていると思うのだが、「女性であることである種の障壁を感じていた、セクシュアリティの多様性に気づく前に、その問題にすでにとりくんでいた」というのがある。
・ええ、私には気づく機会がありました
このシリーズの最初に書いたが、私は70年代に10代を過ごした。「女性アナウンサーが政治ニュースを読む」ことがニュースになった時代にいたわけだ。それはもう、一つの「カラを破る」必要があったわけだ。
さらにもう一つ、これはいまだにクリアされない問題なのだが、父親が暴力を振るう男であったということ(今はさらさら書いてるが、30過ぎるまで口にできなかったんである、これが)。このうらみつらみにかけて、「身体的(筋力差的)性差」抜きでものを考えるつもりは絶対にありません。
なんで父親のことを出してくるかというと、どーもこんな文体でほいほい性のことを書いていると、「問題意識に走った知識人(?)フェミニスト」「気がつく機会に恵まれなかった人たちの気持ちがわからない」ってな受け取り方をされることが往々にしてあるからである。
ええ、おかげさまで、私には気づく機会がありました。しらふで女を殴る男の仕切る家で育ったもので、恵まれてましたねー。しかも、よく「女のほうが口がたつ」と言われたが、どっこい、この男、じつに弁が立ったのである。みなさんお読みの原稿は彼の遺伝子のなせるわざと言ってよい。(あ、私は、言語表現型なところは父親似だが、「嘘のつけないバカ(by パパ)」なところは母親似で、困ったもんだ)。
まあ、結局のところ、私が「性の問題」に関心を持ったのは、自分の弱者部分から出発した、おかわいそうな動機だったというわけかも。ありがち。
ただ、このパパ、ただの暴力親父ではなく、女房は殴りながら下僕にしておきたいが、自分の娘が他の男にバカにされるのは我慢ならんという美しき自己愛的父性愛の持ち主で、「自立できる女性になれ」という教育パパでもあったんである。
まあ、おかげで、娘が高校生になるころにはしっかり言い負かされて、悔しいから娘の留守に女房なぐっていたわけである。やれやれ。それで離婚しない女もどうかしてる(のちに離婚したけど)。
しかし、思えば、どんどん本を買い与えたパパが6年生のときに買ってくれた、宮本百合子の『伸子』を読んで、「あ、男ってだめだ。ぜってー結婚しねー」と思ったのが、私が「フェミニスト」のレッテルを貼られる系の発想を持った最初だったような気がする。ちゃんとまっとうして結婚してねーし。「男ってダメだ」の部分は、その後親父や佃(伸子の亭主)より数段マシな男をいっぱい見て、認識を改めたが。
・「他人の抱える問題」って、そんなもの
こういうの、読んでてうざくない?
前号の続きの問いだけど。
特に男性、特にゲイの方。うざくない? 関係ないって思わない? ヘテロが勝手にやってろ、って思わない?
そう、「他人の抱える問題」って、そんなものである。
あ、でもある意味新鮮だったのは、この発言をした人が、「どーせ女性問題から入って来たんだろう」という前提でものを見なかったことである。それはある意味「他者ゆえの無垢」である。
■クリスマスをめぐるエピソード
昨年の暮のことである。
私の所属する集団はいくつもあるのだが、そのうちの一つでのエピソード。
クリスマス・パーティを企画していたんですな。すると、メンバーの一人、Aさんからこういう希望が出た。「自分はキリスト教の信仰を持っているので、クリスマスという言葉には宗教的な意味合いを感じる。ほかの名称にできないだろうか?」
で、まあ、実行委員会みたいなものに、その人の言葉が伝言された。
私は、いいんじゃない? と思ったのだ。なんか無色の名前にすればって。こちとらの目的は、「クリスマス」ではなく「パーティー」にあったのだから。
ところが、他の人の反応は、それに否定的だった。
「クリスマスというのは、キリスト教と関係なく遊ぶイベントというのが日本の文化だ」
「一人宗教を持っている人間がいるからといって、その圧力に負けてみんなの楽しみをそいでいいのか」
「クリスマスって、べつに宗教的な意味じゃなく使うのがフツーなんだから、こだわるのはおかしい」
「どっちでもいいじゃない、そんなの(だからクリスマスでいい)」
へ?
いや、八百万の神のましますこの島国で、キリストは年末の遊びと結婚式場の神になったのだってことくらい、私はよく知っているが……。なんか……???
まあ、その中の一人は親に行かされたミッション系の学校で、「宗教による圧力」を受けながら10代を過ごしたので、宗教に対して冷静になれない部分があるのだと後で言っていたが。まあ、それはわかるし、その人が後からでもそういう自分に気づいたのはさすがだと思うが、そのときは熱き否定側であった。
私は、「そんなのどっちでもいいんだから、違う名前にすればいいじゃない」といったのだが、他の人たちは「どっちでもいい」とはじつは感じていなかったらしい。
で、私は私で、ちょっとキレた。何かというと、「フツー」にぶちきれたのだ。
たとえば、現在のクリスマスのありかたを、「日本の文化だ」というのは、客観的には妥当だと思う。また、外国人がこの点において「日本はおかしい」と言った場合は、有効な異文化コミュニケーション的説明だと思う。
でも、彼らは、あきらかに「宗教」に対する抵抗感や、「みんなが楽しんでいるものに水を差すような『問題提起』」に対する抵抗感を持っており、そういう自分を自覚しないまま発言していたと思う。
彼らの言っていることから「宗教」というタームを抜いてしまうと、自分の発言がこういう構造になっていることをわかっていなかったろう。
「Aさんの考えは『フツー』じゃない。そういうことを言うのはAさんだけなんだから、『こだわらずに』、Aさんがみんなに合わせるべきだ」
しかも、Aさんが信仰を持っていることはみんな事前に知っており、これまでAさんは、強引な勧誘とか、部外者に通じない宗教的価値観を押し付けるなどはいっさいやったことがない。そして、日ごろから積極的にいろいろやってくれる人である。
それがどうして、弾圧者のように扱われてしまうのか。しかも多勢に無勢で弾圧できねーだろ。さらにいえば、宗教色は出さないながら、その積極的姿勢を支える一つとして信仰が存在していることは容易に想像がつく。その宗教に支えられたおいしいところだけもらっておいて、ささやかな一言を「偏狭な圧力」のように決め付けてしまうのか。
今回もAさんは、自分の宗派の形式のクリスマスにしてほしいといったわけではなく、宗教色の何もないただのパーティーにしてほしいといったのである。みんながそんなにクリスマスのお遊びを固守するほうがわからない。ここで譲ってもクリスマスのお遊びができないような状況じゃないでしょ、今の日本は、それが「フツーの文化」なんだから。よそでいくらでもやればいいじゃない。パーティーでもプレゼントでもセックスでも。
で、私が一人で強情にAさん派で戦っていると(こういうところバカなんである。うまくやれよ、んとに)、一人が悲しそうにこうつぶやいた。
「フツーにしてちゃいけないの?」
くらっ。だめだ、もう根本的に通じない。
いいんだよ、フツーで。だって、フツーは巨大無敵空母なんだから。
今あなたたちは、その巨大無敵空母の上で、ちょっと違う角度で伴走する小船に向かって、「我が進路を妨害する敵だ!」と叫んでおるんだよ。フツーでいいんだから、余裕みせてやってよ、というのが私の論理だったのだが。
・フツー批判している人がフツーのがわにいるとき
これが、最初からフツーな人たちだと思っていたら私もキレなかったかもしれない。しかし、普段ある点においてフツーじゃないことをやっている集団で、そして、フツー批判している人たちなんである。それなのに、自分がフツーのがわでいるときは、それを見直す距離を持つことができなかった。
このときに、私は自覚した。
ああ、私はこの構造が嫌いなんだ。フツーのがわがその威力に無自覚に、フツーでないものに拒否的な反応を示す構造。
そう、70年代に「女性の権利」を言う女たちはフツーじゃなく、フツーの男たちがつまらん叩き方をしてたもんである。私は上記のとおり女性の抱える問題に関しては個人的恨みつらみもあるが、それだけでは説明できない。この、「フツーのがわが理解しようとせず、声を上げるものを叩く」構造にキレるのである。自分の問題だけにうらみつらみと渾然一体となっていたが、実はセクシュアリティに関わってくる動機として、それが大きかったかもしれない。
■レイアウト・構造で考えること
さて、問題はここである。自分の抱えている問題と、他人の抱えている問題がその舞台の「構造」を同じくしているにもかかわらず、小道具がかわると、同じと認識できなくなってしまうこと。
身内自慢のようだが冒頭の81歳の伯母は、それがちゃんとできたわけである。そうだよなあ、まさに彼女の子どもが、不登校とか拒食症とか、「昔からあったのに、認識されていなかった」んだよなあ。その構造、レイアウトを把握して、新しいテーマを認識できることが大切かと。
・すぐ例外とせず定義自体を見直すのが科学的思考
私は学校に恵まれ、教師に恵まれた。家がそんなだったから、学校のほうがずっと好きだったし。
中学のときの理科教師はこう言った。
「ある定義があって、その定義に合わないものが出てきたとき、それをすぐに例外に分類するのではなく、それも含めて定義自体を見直す。それが科学的思考というものだ」
セクシュアルマイノリティの存在を意識したときに、私はまさに彼に教わった思考法をとったわけだ。そして、「クリスマス」に関しても。定義を前提として、合わないものを排除していく発想は、一中学教師によって、すでにぬぐいさられていた。
・「それは想像力の問題ですよ」
高校のときに関して、少し長いエピソードがある。
高校3年生のとき、1976年だが、その9月に「女性問題を考えるサークル」たらいうものを立ち上げたメンバーの一人に私も入っていた。7人の3年生と、二人の教師。
一人は国語教師で、朝日新聞社の『女の子はつくられる』という本でも紹介されていた、冷静な視点を持った女性。もう一人は若く熱血な日本史の男性教師だった。
この男性教師は、「書かれた歴史は、いつもその時代の強者の視点からだった」という見方を示し、女性史、在日朝鮮人の歴史などを授業の中に位置づけていた。
さて、今は当時の活動が問題なのではない。卒業して、10年以上たって、そのメンバーが集まったときのことだ。みんな30歳を越したあたり、仕事もプライベートもいろいろあったが、私はちょうど「同性愛」に関心を持ち始めてもりあがっていたところだった。
で、まあ近況紹介で、私はその話をした。今のようにあーだこーだ鵺のようなセクシュアリティ理論は展開したりせず、シンプルなリブよりの話だったと思う。
国語教師T先生は(私はこの人のことはほんとうの意味で「先生」と呼びたいのである)、興味深そうに聞いてくれた。日本史のKさんの反応が少し意外だった。
彼は、私の言うことに反論し始めたのである。具体的な内容は忘れたが、その論拠というのが、海水浴場で彼をナンパしてきた一人の男性同性愛者から聞いた話、ザッツ・オールであった。そして、そこから導き出して、同性愛者に否定的なことを言う彼のいい方、その「構造」はまさに、女性差別する男性とか、朝鮮人差別する日本人と同じものだったわけである。つまり、論理でもなんでもなく、自分の抵抗感に理屈つけてるだけなのである。
そこで私は言った。「先生が教えてくれた、正史以外でものを見るという方法で考えれば、同性愛だってわかるじゃないですか」。K氏は答えた、「そんな、僕の大事な歴史学と同性愛なんかをいっしょにするなんて、許せません!」
ああ?
さて、そのときである。T先生が、いつもの冷静な口調でこうおっしゃった(この人には自然に敬語を使いたいんである)。
「K先生、それは想像力の問題ですよ。『同性愛』という新しい視点を示されたら拒否してしまうのは、想像力が足りません」
ああ、そう、そうなの。
私もそのとき熱くなっていたけど、あとでゆっくり考えて、こう思った。
「女性」「朝鮮人」「アイヌ」、どれもKさんが自分で出会って「正史以外の視点」で見たわけじゃないんだ。彼が学生時代師事した教授が、そういう視点の草分けの一人だった。女性も朝鮮人もアイヌも、Kさんにとって、すでに論理化されているのを教えられたにすぎない。そして彼は、そうやって得た歴史学の方法論の一番大事な部分を、次の一つに使えなかったのだ。
ああ、これが、「定義に合わないものが出たときに」科学的思考が出来るかどうかということだ。T先生は、国語科らしく(?)それを想像力と呼んだ。そう、そういうこと。自分が今まで知っているものの構造が、他のものにも存在している状況を想像してみる能力、そういう仮定に基づいて検証してみる科学的思考。
必要なのはそれなのだ。
ついでに言うと、T先生は昭和10年代の生まれ。このときに50代である。昨年、60代の先生にまたお会いしたが、その冷静さと柔軟さはかわらない……どころか、磨きがかかっていたような気がする。
ああ、「そういうばばあ」の先達はここにもいたのである。
■一般名詞と「アンチ」の限界
さて、前回もちょっと触れたけれども、私が「ヘテロは〜」という言い方にあまり納得しないのも、これと同じことである。
「ヘテロがフツーだ」と決めてしまう第2のフツー、というか。
一般名詞、一般論というのは、それが「マイノリティ」によって口にされようが、その性質上、「フツー」的決め付けになっていく宿命にある。
・「ヘテロなのになんで結婚しないの?」
ちょっと極端な例かもしれないが、事実だから書いておく。
セクシュアルマイノリティである人からこんなふうに言われたことがある。
「ヘテロなのになんで結婚しないの?」
「なんで子ども生まないの?」
だからぁ(^ ^ ;
それは「なんで同性が好きなの?」っていうのと、構造的には同じなのである。
そしてこういう問いを発するセクシュアルマイノリティは、婚姻制度のことはもちろん、「結婚」も世間一般以上に「考え」ていないし、子どもを生まないほうが自分にとって自然体な人間がいるのだということを「想像」しない。まあ、いちいち例は挙げないが、セクシュアルマイノリティだからというだけで、セクシュアリティすべてのステージをクリアできるものではないわけである。
・「強者」の一般名詞を認識すること
「ヘテロは」と言ってしまうこと、「男は」と言ってしまうことの限界はつねにすぐそこにある。
それら「強者」の一般名詞を認識することは一つ必要なことではある。それらの名詞は「ふつう」という認識のもとに、セクシュアリティの一つの切り口としては認識されていないことがあるから、客観化するためにも必要なのだ。
しかし、ひとたび認識された一般名詞は、頑迷なアンチテーゼに陥る危険性もあるのである。冷静な状況認識に使用するかアンチテーゼに使用するかは各人にかかっている。
・振り子構造
ちなみに私は、「フツー」からはずれている部分をきちんと把握することを「おもしろい」と感じるわけだが、アンチテーゼはあまり好きではない。
子どもの頃、「AよりBがいい」というような言い方をしたとき、母にこういわれたことがある。
「何かをいいと言いたいとき、ほかのものを否定するのはつまらないわよ」
まあ、たしかにそうである。
樹村みのりという漫画家の『翼のない鳥』※3という作品にはこんな言葉がある。今手元にないので、記憶に頼って書くから、不正確かもしれないが。
「否定によって離れていっても、また戻ってくるだけだよ。振り子のように、一番遠くへ行った者が一番近くへ戻る」
つまり、宗教で抑圧された人が宗教を否定することによって、信仰を持っている人を抑圧すること、それがまさにこの振り子構造なのだ。
アンチテーゼは、最初の問題提起という重要な役割を果たした後は、つまり次なる固定化にすぎないのだ。「女は奇形が好きなのよ」
と言ったマスターの発言の的そのものは少々はずれているが、「私は」二つの意味で奇形好きといっていいかもしれない。
は〜い、江戸川乱歩を愛読してます。ってのが一つ。
もう一つは、このなんらかの「基準」以外のところについ視点が行ってしまう、というところ。
※3 『翼のない鳥』──樹村みのり作品集「子ども編」に収録されています。
■ヘテロだから考える
「なぜヘテロなのにセクシュアリティのことを考えるのか」というお題を考えてきたらこうなった。
じつはもう一つの視点がある。それは私が本質的に文学屋だということなのだが、これはまたべつの機会に譲るとしよう。
さて、それで、「物事は曲げて見、ナナメからみてほんとのことがわかるのだよ」(by清原なつの)というのも座右の銘の一つ(いっぱいあるのだ)にしている私としてはここでもう一つナナメから見ることを考えた。
・なんで「ヘテロなのに」なのだろう?
「セクシュアリティ」ということばは、セクシュアル・マイノリティの性のあり方を指すような用法がある。それはもちろん必然から生まれたものなのだが。「ヘテロはセクシュアリティを考えない」と同性愛者が言ったとき、それは「同性愛のことを考えない」という意味である場合も少なくないと感じる。そして、彼らの文脈で、ちょっと極端に言えば、「ヘテロ」は「セクシュアリティ」と切り離された対義語のように位置づけられている場合さえある。それなら、ヘテロ・セクシュアルな人間がセクシュアリティのことなんか考える意味がない。
もちろん、私がセクシュアリティのことを考えるときは、「セクシュアリティ」の中には「ヘテロセクシュアル」も入っているのである。自分が大好き。
よく考えてみたら、それだけのことじゃん。
長々と書いてきて、こんな終わりでいいのか(^ ^ ;[木谷麦子]