さて、さんざん勝手なことを書いているこの稿だが、今回は、AGP(同性愛者医療・福祉・教育・カウンセリング専門家会議)というグループの例会でちょっとお話をしたので、そのことを書いてみようとおもう。
「セクシュアリティについてよく知らない人に話すときのココロエ」というお題をいただき、それについてお話しした。
自分はよくわかっているのか、ということは置いといて、とりあえず私は、まあ1988年から専門学校の教室で10代の学生相手にセクシュアリティの話をしてきたので、その経験上得たものを整理してみただけであるのだが。
《模擬授業》
最初に、模擬授業と称して、まあ単に授業の枕に使っている雑談をした。夏の北海道旅行の話。
<木谷麦子さんの主な著書>
『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』編著(夏目書房、1999年、2,600円)
『ある日ぼくは「AIDS」と出会った』(ポプラ社、1998年、1,400円)
ある夏、私は友人と二人で北海道旅行をした。旅慣れた彼女の車に乗って、釧路から小樽に抜ける旅だったが、それがスタートからマヌケなエピソードで始まるヤジキタ道中。
ちなみに、学生というものは、「授業」より教師の雑談が好きなものだが、私は卒業生から「先生、話うまいよ」とお墨付きをもらっており、たいていのクラスで、学生は楽しんで話をきいてくれる。
で、そんなてきとーにリラックスし、てきとーに集中力のある雰囲気の中、舞台は札幌の「オナベ・バー」へ。十九歳のオナベ「あっちゃん」の話で学生がもりあがって来た頃……私はこう言う。
「そのとき、友達があっちゃんに言ったんだよ、『私、ちょうど逆なんだよね』」
学生たちの頭の上には「?」と「!」がいくつもきらめく。
そう、この友人は、「MtF・TS」※1だったのである。
※1 MtF・TS──MtFはMale to Femaleの略。体が男性で心が女性である人のこと。TSはトランス・セクシュアルの略。
この話は、最初に、実際に旅行した夏休み明けに話して効果的だったので、その後も使っている。また、ほかの話でも、これと同じような効果を意識しつつ話すことにしている。
で、この話の効用は何か、というと。
まず学生が、リラックスして話を聞いているということ。
それから、私の「友人」である女性のイメージが先に頭の中にあって、旅好きでコミカルな人物像が、見慣れた私の横に描かれていること。
「トランスジェンダーとは」という入り方をした授業とまったく違うのは、先に生身の人間がイメージされ、その人の持っている要素(旅が好き、など)がいくつか認識されたうえで、その要素の一つとして「トランスジェンダー」というのが入ってくる、という順番になっているということだ。
わかりやすい違いを言うと、「トランスジェンダーとは」で始めた授業で、「例」として同じ人の話をしたとして、必ずといっていいほど「その人どんなかっこうしてるの?」という質問がでる。いわゆるテレビに出ている「ニューハーフ」のイメージが強く、私が「ふだんはTシャツにジーパンとか」と答えると、頭の中のニューハーフに着せ替えをするような作業になって、なんとも効率が悪い。
先に旅の話をすると、日常的な生活をしている様子が先に入っているから、おもしろいほど「どんなかっこうしてるの」という質問が減る。
三番目の効用。「逆なんだよね」の発言から後、彼女を例としてトランスジェンダーの話をしていくのだが、最初に彼女の「キャラクター」になじんでしまっているので、多くの学生が、彼女に思い入れしやすい。身体違和のことなど、私も含めて、それを感じたことがない人には想像しがたい感覚なのだが、それも含めて、彼女の側の視点に立って考えようとする。だから、たとえば彼女が、「おかま?」という目でじろじろ見られたことの話などすると、自分は見ている側ではなくて、見られている側に立って話を聞くことになる。
学生の中には、当然TSもいるだろうが、そうでない学生も、いつのまにか彼女の側のカメラで映した世界に引き込まれている。
まあ、教室というところは、いろいろな学生がいるわけで、すべて同じようにいくわけではなく、この流れに抵抗する者も中にはいるのだが、まあだいたいにおいてこんな感じなのである。
《キョーイク心得》
教育は洗脳ではないからだ。全員に「同性愛者を差別してはいけない」と言わせたい、と思った時点で、教育としての質はさがると思うべきなのである。
教師が決まった答えを「教え込む」のが教育でないとすれば、教師の価値観や心情において非常に大切なものに、反対の立場を持つ学生がいたとしても当然なのだ。そこでわれわれは、自分の持っている大切なものを伝えようと、やっきになってしまいがち。それは教育の本質を見失っている。
問題を提起し、ブレインストーミングの機会を提供すること、それが教育の役割だ。
「答え」や「結論」は学生の所有に属す。
だから私は、「反戦教育」はしない。「戦争」についての問題を提起し、情報を少し提供することによって学生自身がより多い情報を得ていく呼び水とし、そして、「答え」は彼らのものだ。
たとえば、教師が誠意や、当事者としての実感で語るとする。その現実性や切実さが学生の心を打つとする。それは一つの効果だ。だが、その一方で、「それに違和感を持つ学生の発言を封じる空気」をつくっていることをも自覚するべきなのだ。
私の好きな言葉がある。
「全員一致は民主的じゃない」
古いアメリカ映画にあった言葉で、これを見たときは幼い子供だったのだが、ものすごく感心して、今に至るまで座右の銘にしている。
また、すぐに答えがでないのもあたりまえ。教育の本質は「ブレインストーミング」にあるからだ。「こどもに柔軟な思考を」とかいいながら、その「学習効果」をすぐに求めているのが今の日本社会の一般だと思うが、そりゃ根本的に違うでしょう。中にははっきり効果が見えることもあるけれど、10年20年たってから、それも目に見えない形で「効果」はでてきたりするのだよ。
焦ること、目に見える効果を期待すること、それは禁物。おとながそれを求めていると察知した時点で、ワカイモンたちは、「じゃあまあとりあえずこう答えときゃいいだろう」という答えを出してくる。それが度重なれば、「なんだこれを求められてるだけか」と思ってブレインストーミングをやめてしまう。
さらに、学校現場では、目に見える効果を求める親や上司の圧力が、どれだけ柔軟な教育の可能性をつぶしているか。
その1と関連していることでもあるが。
1の方では学生を中心に、「教育の本質」から考えた。
今度はこちらの側から考える。ようするに、「伝える」ことが重要なのだ、という見方から行く。
教師自身も、一般の人も持っている、不思議な誤解がある。「いっしょうけんめいやっているのがいい先生」。少なくとも教師はこんな概念に甘えていてはいかん。「いっしょけんめいやった」から評価されるプロフェッショナルなどいない。
目先の効果を期待しない、と言ったこととは矛盾しない。いかに疑問を持続させるか、ブレインストーミングをさせるか、そういう工夫は冷静になされるべきなのだ。
教師が感情的になって熱く語ると、学生はその「熱さ」を感じてはくれる。そのことでさえ、効果の一つとしてときに意図的に行われるぶんにはいい。ただ、熱さが伝わったことを、内容が理解され、学生の中で思考として成立すると勘違いしないことが必要なのだ。そして、多くの場合、自分の願いの強さからの発言は、べつの立場の人からはうっとうしいものだ。
フェミニズムの論理が男性にどんなふうなうけとられかたをしてきたかを冷静に観察してみればいい。彼らが理解しないことを「男はばか」というのは簡単だし、かなりのパーセンテージそれは事実かもしれないが、他人の事情に関しては誰だってバカなのだ、というのは当然の前提ではないか。
ゲイの中には、フェミニズムで批判されているのは「ヘテロ男」※2であり、女性とパートナーシップを持たない自分は関係ないから「ヘテロ女」に批判される筋合いはない、とすずしい顔をしている方々もある。まあ、そういうおバカな勘違いが生まれるのは、やはり他者が必死こいている姿のうっとうしさのせいなのである。
ゲイが、ゲイ以外の人に同性愛について伝えようと思うときは、ぜひフェミニズムがかったヘテロ女のうっとうしさを思い出し、二の舞にならないように気をつけましょう。
※2 ヘテロ男──ヘテロセクシュアル(異性愛者)の男のこと。「アタマのかたいバカの代名詞」でもある。
わからない人と戦っている姿は傍目には醜いと自覚せよ。ということ。
まあ、そういうのが「かっこいい」と思う場合もあるんだけどね。
私が同性愛の授業を始めたころは、じつにこの、わからない人をわからせようとする努力に、多くの時間と労力を費やしたのだった。
最近は、時代も変わり、こちらもうまくなったので、そういう反応は減ったのだが、「同性愛」というと、「きもちわるい」とか、ヘンな笑いとか、「自分と関係ないところでやってる分にはいい」とか、まあ、ムカツク反応が起きるわけである。
あ、ちなみに私は同性愛に関して「当事者」じゃないけど、こういう反応はムカツク。なんでだろう? ……というのは、またいずれ考えることにして……。
ムカツクと、ついその人をセットクしようとしはじめる。
セットクされはじめると、相手もいこじになる。
ここで、以前もどこかで書いたことを繰り返すが……。
同性愛が「きもちわるい」とかいうのは、基本的に根拠のない反応である。だから、じつはそれほど根が深くない場合もあるんである。それが、セットクにかかられる=差別者として規定された、と感じた瞬間、相手は防御に入る。
いまどき、サベツはしちゃいけないことで、サベツするのはワルイ人だ。だから、自分は差別してるんじゃなくて、当然の反応をしているんだと、セットク返しをしてくる。アルマジロみたいに硬い皮膚を表に出し、丸まって目を上げようとしない。
こうなってはセットクは逆効果だ。相手はどんどんかたくなになっていくばかり。
そして、こっちも熱くなって相手のズレた論理と戦っている様子は、傍にいる冷静な人から見たら、わかりやすいものでもなければかっこいいものでもない。わかる人が引いちゃうよ。
あるいは関心を持っていたのに、「なんだか関わるのは面倒なこと」と思ってしまうかもしれない。
だから、私は、ある時期から、「わかる人」「関心のある人」を基準に、プラスの形の情報提供を授業の趣旨にするように意識しはじめた。
抵抗感のない人、関心のある人に応える形で、話を進めていく。すると、その人たちの関心が深まり、柔軟性が深まっていく。抵抗感のない人の理解が広がっていく。
すると、前向きに考える「環境」ができていく。中間的だった人たちは、「前向き」の方にシフトする。
教室という場所では、さまざまな考えや感性を持った複数の人間を相手にし、しかも時間は限られている。
反対者を説得するために時間を費やして関心のある人を置いてきぼりにするのは、もったいないのだ。
「ヘテロ男は」という決め付けの元、どれだけの柔軟な人材を見過ごしていることか。
「セクシュアリティを考えている人たち」の間で、アタマのかたいバカの代名詞が「ヘテロ男」である。
だけど、あたしをそうバカにしてもらっちゃ困る。「ヘテロ女」であるところのこのあたしが、何人も、何年も、そうそうバカばっかりとつきあってきて懲りないと思うのかね? んなわけない。
別の言い方をすれば、頭の固いゲイもレズビアンもトランスジェンダーもいて、それよりずうっとやわらかい、ヘテロセクシュアルの男性もいるのである。
もちろんストレート※3の名にふさわしいどーしよーもない石頭が山ほどいることは私だって知っているし、つねづね頭にはきている。しかし、そういうものに「ヘテロ男」を代表させて、柔軟な人々をも押しつぶしているわれわれあらゆる「非ヘテロ男」の発想は、それこそ「石頭」ではあるまいか。
柔軟な人ほど、自分が有利な場所にいることを知っている。だから、控えめであることが多い。彼らは、「男なんてー!」「ヘテロなんてー!」という一方的な言辞を、たいてい黙って聞いている。
そして、あるときこちらがふっと気づいてたずねる。
「きみ、こういう『ヘテロ男』じゃないよね? どんな気持ちで聞いてるの?」
「ん? いろんな人がいるのにな、と思って聞いてる」
まったくそのとおりだ。
弱者なら強者を決め付けていいと思っていた自分を、彼らの前に恥じるべきである。
そして、こういうかわいいヘテロ男を発見し、すくすく伸ばしてあげましょうね。
彼らは、「男性社会」で、居心地の悪い思いをしていることも多い。だから、男社会の雑草の中にまぎれて目立たないことが多いから、そっと探さないと、気づかずに踏んじゃうよ。もったいない。
※3 ストレート──異性愛者のこと。
あたりまえだ。
まあね、マジョリティは無意識のうちにマイノリティよりは楽して生きてるっていうのは事実である。でも、マジョリティとマイノリティっていうのは、一人の人がある面では前者である面では後者でっていうわけで、錯綜している場合も多いのだ。
それで、もう、社会とか人生とか考え始めたら、楽して生きてる人間なんかいるわけがないのである。
それぞれが自分の人生にていっぱい。
「マジョリティは余裕ぶっこいてるんだから、自分の有利な立場を反省して、マイノリティを理解しろ(そのためには手間と暇と金くらいかけろ、得してんだから)」というのが弱者の側がついやってしまう発想だ。
でもね、自分のトクにならないことをやらせたら、長続きしない。負担になる。
この場だから、正直にいいましょう。
数年前、私はこんなふうに思った。
1987年から同性愛についてやってきて、ヘテロセクシュアルである私に何が残ったか? あんたらのためにやたら人生の時間をすり減らして、なにが私の得になったのか、教えてください。そういうこと、考えてないでしょ。
確かに最初の何年かは、自分の発想が根底から変わっていくことが私にとって、おもしろく、楽しく、トクだった。
でも、10年を越えた頃から、疑問に思うこともあった。
「ヘテロはセクシュアリティのことを考えない」
同じ台詞を10年以上言われ続けていれば、疑問にも思う。
だって、考えてるもん。まあ、10年間同じ人から言われたわけではなく、私がどんどん新しい人と知り合っていったから、全体的「ヘテロ状況」が変わらないうちは繰り返されてもしかたのないことで……ってことくらい私も思った。
でも、結局のところ、セクシュアル・マイノリティの多くも、その指摘から先にさほど展開していかないことに気づいてしまったのだ。
もちろん! 打破すべき現実があるのに、それが変わらないのだから、自分の状況を最優先するのは当然であり必要なことだ……ってことくらい私もわかる。
しかし、ゲイもレズビアンもトランスジェンダーも、「セクシュアリティ」のことを全体に見渡して考えようという人は少数で、「自分の立場の必然」を考えているのが多数であり、「ヘテロはセクシュアリティのことを考えない」という指摘は、「自分の立場が理解されない」という指摘に過ぎないことに気づいた。
そう、それはあたりまえでしょう。しかし、本人たち自身が、自分が自分の立場の必然に縛られていることに気づかないまま、「セクシュアリティ」という言葉を使っているにすぎない例に多々出会い、しかもそういう人たちから、「ヘテロは〜」と決まり文句を10年も聞いていれば──飽きる。
こういう正直な気持ちを言うヘテロもそうそういないだろうから、あえて言う。
あ、考えてみれば、飽きるほどこんなことやってた馬鹿へテロが、そもそもそうそういないかもしれないけど。
そして、私は思った。
「『ヘテロはセクシュアリティのこと考えなくても生きていける』って、みなさんおっしゃいましたわね〜、何度も何度も。じゃあそーしよっと。もう考えないもんねー。あたしってばヘテロだし〜」
というわけで、実は数年間、このテーマを放り出していたのだ。
だって、ほかにやりたいことたくさんあるし、わが人生において大事なことだってあるのだ。性教育だけが私の人生じゃないって、知ってた?
でも、私には弱点があった。
それは教室であり、学生だ。うちのコはみーんないいコよ〜、という教師馬鹿の私としては、彼らが必要とするセクシュアリティに関する授業を、やめることはできなかったのだ。
というわけで、たいへんハンパな「セクシュアリティのことを考えないヘテロ」生活を送った。
──なんで戻ってきたのかな。
次のステップを見込みながら、声をかけてくれた人たちがいたからだし、私自身が、じゃあ次に行ってみるべ、と思ったからだし、私は常に新鮮な授業をしていたいからだ。
逆に言ってしまえば、私のような弱点を持たないヘテロセクシュアルは、ある線から以降、入ってこなくなってもあたりまえかな、と思うのだ。
私にとっては、今、その人のセクシュアリティとは関わりなく、「次」へいけるかも、と思う人たちがいる。んじゃあ、いそがずあせらず、次へ参らうか、というところかな。
でも、これは大切なことだと思う。自分のトクにならないことで、自分に楽しくないことで、人は持続して時間と手間を使わない。相手がちょっと有利な立場にいるからといって、当然のように要求してはいけないと思う。
まあ、ちなみに、私自身が「オトコ」に関しては、かなりそういうやりかたしてきてるんですけどね。だからゲイに対しては点辛いし、おめーらに言われる筋合いはねえって態度だし(ははは)。反省。
《「次」の見方》
さて、いろいろ書いてしまったが、教育において大切なことは、「知りたがっている」「気づきたがっている」芽を育てることだ。最初に書いたとおり、洗脳ではないのだから。とはいえ、教室以外の日常の場で、相手が石頭で、しかも手っ取り早く「わかった」気にさせることが便利な場合は、この限りではない。花も実もある嘘八百でもかまわない、都合のいいように、「わかった」気にさせてしまうのは方便である。
でも、それなりに大切な関係性のある相手の場合には、向こうが表に出してくる感情が否定的なものであったとしても、洗脳よりも教育の方法論をとったほうが、長い目で見れば有効な場合もあるかもしれない。そういう場合には、もしかしたら、私の使っている教室の方法論が、ちょっとは有効な場合もあるかもしれませんね。何年もかかるけどね。
私が、いつも大切にしている言葉がある。それは、ある学生が卒業のときに残してくれた言葉だが、それ以降、私の教育の目標になった言葉だ。
「同性愛やトランスジェンダーについての授業は、ぼくの、性についての物の見方を、根底から変えてくれた。知識は風化していくけれど、一度変えてもらった物の見方は、次のができるまで生き続ける」
うれしいのは、彼が「物の見方が変わる」ことを体験したこと。
そして、「次の見方」に言及していること。
私は授業をするとき、「自分の知っていることを伝える」ことを目的にしたことはない。学生たちが、私の目の高さでとどまると思ったことはない。「私の得た次の地平にいたること」。
少なくとも、教師生活20年のうちで、一人の学生については、私はこういう授業ができた。そして、彼がそれを言葉にして残してくれたおかげで、私ははっきりと、自分の授業の目的を掲げることができるようになったのだ。
この話をしたら、同僚の教師が教えてくれた。「ドイツ語では『わかる』というのを、『別の場所に立つ』と表現するんだよ」
そうかー、いい話だ。別の場所に立つんだから、簡単にできるはずはないことなんだ。
そして、別の場所に立つんだから、それだけで、ちょっとばかり楽しくてトクなことではないだろうか。
そして確かに、小さなことでも、「別の場所に立った」ときの学生の表情ってのがね……だから教師はやめられないのさ。
さて、私事だが、7月の初めに母を亡くした。
子供の頃、彼女にこんな話を聞いたことがある。
「北大のクラーク博士が、Boys be anbitious.って言った、というのはよく言われるわね。でも、この言葉は、続きが大事なのよ。彼はこういったの。Like this old man. このじじいみたいに、って言える大人でなければ、若い人に向かって、大志を抱け、なんて言えないのよ。それも知らずに、自分のことはおいといて、前半だけ言ってる大人は情けないわねえ」
そうか。
「若者よ、別の場所に立ってみよう、like this old woman」
そういうばばあに私はなりたい。[木谷麦子]