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セクシュアル・オリエンテーションはどこへ向かうのか
知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門[2]

木谷麦子 

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ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト あるトランスセクシュアル※1が何度も私に聞いた。
「男が好きって、男って何を基準にしてるの? 性器?」
 あるヘテロ
※2女性があるゲイに言われた。
「あんたもチンポが好きなのよね、おんなじよ」
 しかし彼女はべつにチンポが好きなわけではないと思ったそうだ。
 というわけで、今回のお題は「私にとって男とは何か」。
 (余談だけどさ、オトコってどうして自他のチンポにこだわるわけよ?)


※1トランスセクシュアル──体の性別と心の性別が合っていない人
※2ヘテロ──ヘテロセクシュアル=異性愛者

 [1]米倉涼子好き

<木谷麦子さんの主な著書>
セクシュアリティ入門
『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』編著(夏目書房、1999年、2,600円)
ある日ぼくは「AIDS」と出会った
『ある日ぼくは「AIDS」と出会った』(ポプラ社、1998年、1,400円)
 さて。セクシュアルオリエンテーション(性的指向)には、ヘテロセクシュアル(異性愛)、バイセクシュアル(両性愛)、ホモセクシュアル(同性愛)の3種類がありますよ、というのが「入門編」だ。
 しかし、人間がそんな3色アイスクリームみたいに3つのお味にはっきり分かれているわけではない。そもそも性別そのものが、「男と女の2種類しかいない」というわけではないのだし。
 セクシュアルオリエンテーションって、なんなんだろう。
 私の自称のなかに、「いちおうヘテロセクシュアル」「男嫌いのフィメイル・ヘテロセクシュアル」というのがある。男嫌いはとりあえず置いといて、まずこの「いちおう」の「いちおう」は何なのか。理由は三つ。

  1. 本当に男「しか」好きになったことはないのか、と問われれば、んー、と考える余地があるから。
  2. これから先、大小あらゆる性衝動が男に「だけ」向かうのかと問われれば、んー、と考える余地があるから。
  3. おまえにとって何が「男」なのかと問われると、んー、と考える余地があるから。

 さて、あっちこっちで書いたり話したりしているのだが、私には「女性に惹かれたこと」っていうのもある。かなり恋愛感情的だった相手は一人だけだが、「女性でも〜のタイプは好き」というのもある。私がこの点に注目するようになったのは、あるレズビアンとしょっちゅう電話でシモネタを話していた頃のことだ。セクシュアルオリエンテーションがちがうのに、なんでシモネタができるかというと、二人とも「かわいい男とかっこいい女が好き」だったので、わりと話が合ったのだ。
 私がかなり恋愛感情的なものを持った相手の女性は、長身で、一見して「美青年」風であった。だから、私自身が自分の感情を「これは男性への感情を投影しているだけなのではないか、本当の同性愛は何かもっとちがうものなのではないか」と余計な理屈をつけて疑ってしまった面もある。これがまちがいだったのではないかと今は思うのだ。
ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト ちなみに私は、ルックス的には米倉涼子がかなり好きである。キーワードは「骨」。骨っぽい感じ、というのが好みのポイントなのだ。米倉涼子はときどき「男っぽい」とも言われる。「さっぱりしている」とかいうことなのだが、それを「男っぽい」というのはジェンダーロール※3ばりばりの発想でしかない。単に彼女は「そういう女」なのだ。で、私は「そういう女」が好きである。
 それから、米倉の切れ長・三白ぎみの目、薄めの眉もポイント。あのカオ、男であっても好みのタイプだ。
 酒だかタバコだかでジャニーズJr.をクビになったOくんのカオもわりと好きで、よく似た姉をCMで見かけるとうれしい。
 あるMtF※4に出会ったとき、たいへん好みのタイプだったので、私は思った。「この人が女なのはもったいない……いや、女でもこの人なら好きだな」。この思考は1万分の1秒程度で回転した。

※3ジェンダーロール──社会的性役割。社会が特定の性別の特質、あるいは役割だと思っているもの。なお、ジェンダーアイデンティティは性自認(自分の性別をどう自覚しているか)のこと。
※4MtF──Male to Femaleの略。体の性別と心の性別が合っていない人(トランスジェンダー)のうち、体が男性で心が女性である人のこと。体が女性で心が男性の場合はFtMという。

 そして、気付いてみれば、世の中には、「同性でもこれこれのタイプは好き」という言葉が渦巻いている。逆にデブ好きのゲイが、デブな女性芸能人がお気に入りだって話を嬉しそうにしているのを聞いたこともある。
 そんなとき、私の教室で一人のやおい少女が断言した。
「『男が男に惚れた!』とかいうのはね、あれはみんな内なるホモだよ」
 なるほど。

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト ヘテロセクシュアルがベースである人が、安易に「自分も同性に惹かれたことがあるから気持ちがわかる」というのは、歓迎されない。
 しかし今思うと、その感情自体はニセモノなわけではないのではないか。
 そうした発言や認識に問題があるとすれば、以下の2点である。

  1. 無意識のうちに価値観が異性愛前提となったままで同感しているため、もしくは確信的に、いずれ異性愛に向かうかのような捕らえ方をする。もしくは、異性愛に向かうべきだという押し付けになる。
  2. 自分の経験の中で同性に惹かれたのはそれほど深い感情やのっぴきならない状態ではなかったのに、それを基準に「わかる」と思い込んでしまうのは、認識が軽すぎるから。

 これらの点を修正するに必要なのは、「異性愛者が同性に惹かれる気持ちは同性愛とはちがう」と規定することではない。「セクシュアルオリエンテーションは多様であり、どれかが中心的なものであるわけではない」という価値観を根付かせることだ。また、今の社会で同性を好きになることに付随する種々の条件・障害について正確に理解することだ。
 そうでなければ、中間的なものの否定になってしまう。「異性愛でなければならない」という排他的ジョーシキを打破して、「異性愛か同性愛かのどちらかでなければならない」という、一味違うだけの排他的ジョーシキを確立するだけのことになる。
 同性愛者の一部に見られる「バイセクシュアル嫌い」は、その日常的現れであるともいえる。

 かつて言われた「同性を好きになるのは思春期にありがちな一過性のもの」という認識に、同性愛者たちはもちろん納得しない。
 それならば、圧倒的にヘテロセクシュアルであると思われる私が一人だけ好きになった相手を、「一過性のもの」「男への感情の代償に過ぎない」と片付けられる筋合いもないと思うのである。
 じつは、同じことのまったく逆のことを、かのレズビアンも思っていた。彼女も一度だけ男性を好きになったことがあるそうだ。しかし、ほかの点で「ばりばりレズビアン」であるところの彼女が男性を好きになったということは、かなり言いづらいことであったらしい。
 私は思う。人間の感情はそれそのままの姿で大切にするべきだ。

 さて、ではどうすれば自分の感覚にすっきりくるだろう、と考えた。
 そこで考えたのが、「人の性衝動・感情はイベントである」ということだ。イベントというのは、催し物という意味ではなくて、その原義である「できごと」という意味。
 私が米倉涼子をテレビで見て「でへへ」と思うのは、「同性に向かう比較的ライトなイベント」、かの美青年風女性に引かれたのは、「同性に向かうかなり大きなイベント」、鈴木研一(この名前のわかる人はお友達になりましょう)の黒髪に反応するのは、「異性に向かうかなりマニアックなイベント」、ということになる。
 私の場合、このイベントが、異性に向かうものが回数も多く大きさも大きいものがあったので、自他から「異性愛者」と認識されたのだろう。左記のレズビアンの場合は、ちょうど私の鏡像くらいのバランスで「同性愛者」である。
 イベントの数も大きさも、同性に向かうものと異性に向かうものとがそれほど偏っていない人たちを、「バイセクシュアル」と言うのであろう。
 このように考えれば、私が一度同性を好きになったことも、レズビアンの彼女が一度異性を好きになったことも、その感情を不当に貶められることなく認識できる。
 これは、「どんな人も同性にも異性にも惹かれた経験が少しでもあるはずだ」という意味ではない。それはそれで排他的になってしまう。すべてのイベントが、特定の性別にしか向かわない人もいるのだ、たぶん。

 [2]オリエンテーションはどこへ向かうのか

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト さて、この稿の最初に提起した問題を、保留にしたままだ。それは、「何が男で何が女なのか」ということ。また、この稿では米倉涼子を「同性」、鈴木研一を「異性」として違う方向にあるかのように書いたが、じつはこの二人に惹かれているときの私の感覚に共通したところもあるのも事実(いっしょにするな! とそれぞれのファンから石を投げられるのは覚悟の上(^ ^;)。
 「セクシュアルオリエンテーション」とは「性愛が向かう先」だと言われる。その先にあるものは何なのか? この概念が作られたときには、それは「男」か「女」であった。だが、現実に、単純な2元論で「向かう先」を語れるものなのか? ということを、自分をサカナにして考えていきたいと思う。

 私が女性異性愛者であるとして、するとセクシュアルオリエンテーションは「男性」に向かっているわけなのだが、あるMtFの問いをくり返そう。「何が『男』なの? 性器?」
 さて、みなさんはこの問いにどう答えるでしょう?
 これはMtFである彼女に向かって、「自分にとってあなたは女だ」「男だ」という回答をつきつけるものになる場合もあるので、慎重に考えてください。

 少なくとも私は性器そのものにあまり関心が無い。男性器という異様な物体は、好きな相手についているからだんだん慣れ、そのうちおもしれーと思うようになった、というのが実感である。
 そして、厳密なところ、自分にとって何が「男」なのか、という答えは出ていない。生物学的オスであることも「男」の条件の一つであることは確かだ(それは生物学的メスであるFtMを男と認識できないという意味にはならない、念のため)。
 ただ、私は同時に「男嫌い」でもある。
 そして私の性衝動の重要なキーワードは「骨」と「肩」である。
 私は、やはり生物学的オスに反応する部分もあるらしく、彼らを見ると、まず「肩」と「骨」をチェックする。好みの「型」があるのだ(「骨格逆三角形=特に鍛えてないのに骨格そのものが逆三になっている」のがベスト。薄く筋肉がついてるのもいい)。そこそこの肩を見つけると内心でチェックする。ちなみに鈴木研一(この名前のわかる人はお友達に……)の肩はかなり好きだ。アレくらいいいのは意外とないのだ。
 ちなみに、肩が好みでなくても、人間がよければ恋愛したことはある。中身が最低でも、肩がよければ観賞用になる。肩もない上に「男ってのはなあ」みたいな一般名詞を振り回していばるようなオスなんかには性衝動なんか動かないっつーの! そんな「異性」にオリエンテーション向かわないっつーの!
 逆に、女性でいい肩している人を見かけると、目が離せない。んー「乳房」っていうのは私の性衝動にとってはちょっと興ざめなのだが、女性ボディビルダーなんかだと、筋肉が張っていて胸も脂肪っぽくないので、かなり好きだ。筋肉がでかすぎる男性ボディビルダーはペケ。
 という意味では、所詮性別だけを基準にした「セクシュアルオリエンテーション」は、私の実感にしっくり来ないのだ。

ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)NEWSLETTERイラスト 肩の話でお気づきだと思うが、私はちょっとフェティッシュな傾向がある。
 フェティシズム、フェチ、というのは、人間そのものではなく、人体の一部や物に性衝動を感じることである。
 私はモノでは、給水塔や鉄塔、古いビルヂングなどが好きだ。ある程度以上の大きさの石や鉄の人工物。自分の感覚では、「肩」はそれらと似ているのだ。いや、どちらが基準なのかわからないが、好みの「肩」を見るときと好みの「塔」を見るときの感覚はよく似ている。

 これもあちこちで書いたり話したりしていることだが・・・
 ウチには「秘蔵ボンテージ写真集」がある。レズビアンB氏(前に書いたレズビアンとは別人)がうちに来たとき、ボンテージ系結構好きだと言うので、見せた。
 あー、こっからはボンテージ系だめな方はひかずに読んでくださいね。
 その中で私のお気に入りは、女性モデルを使った弓なりの逆さ吊りである。ところが、彼女が眺めているのは、男性モデルにクリップいっぱいつけた写真。私はあまり好きではないものだ。
 結局二人とも、自分達の「セクシュアルオリエンテーション」とは逆のモデルの写真を選んでいたのだ。もうモデルの性別は二の次で、ボンテージの手法の好みの方が優先されていたわけだ。
 体の性別がすべての基準なのではない。
 彼女は「レズビアン」と名乗り、レズビアンとしての活動も少ししている。「クリップ好きボンテージファン」とは名乗っていない。それは、ボンテージが好きな分には今の社会では勝手に好きでいればよく、一方レズビアンであって女性のパートナーを持つとなれば、社会的に居心地のいい状態を作る必要があるからだ。

 このように言うと、「同性愛は性的指向であって嗜好ではない」という言葉を思い出す。それはそのとおりだ。
 だが、またほかに思い出すこともある。以前、ある本の編集に携わったとき、生き方とセクシュアリティについていろいろな人にインタビューした。同性愛者、離婚経験者……その中で障害者も入れたかった。最初に連絡をとったのは障害者をサポートしている人だったのだが、その人がこう言った。
「障害を、離婚とか同性愛とか、自分で選べるものと一緒にしないでほしい」
 それは障害というものの重さを訴えたい言葉だったと思う。他の選択もあるのに選んだ道ではないのだと。もちろん、そこで、セクシュアリティだって選べるものではないし、簡単なシュミではないという話をして納得してもらい、協力してもらったのだが。
 ボンテージやSMもそうだ。これだって、ライトなのが好みの人は生き方にも社会的にも影響が少ないが、のっぴきならない衝動を抱えている人たちだっているのである。そして、ライトな傾向の人はじゃあ、執着も少ないか、と言うとそういうわけではなく、ライトなボンテージへの執着があるわけだ。
 つまり、あの障害者のサポーターが、離婚経験者や同性愛者を「自分で勝手にやってる」というニュアンスで見ていたように、同性愛者もボンテージやSMを「勝手なシュミ」、もしくは「変態」と思っている、ということもありうる。
 前項でも触れた排他的な規定を、みんなが順番に他人にあてがっているようなものだ。

 さて、話を戻そう。
 オリエンテーションはどこへ向かうか、だ。
 今回のサカナである私のそれは、大方「オス」に向かいつつ、好みでないものはどんどんはねて、好みのものだけを「男」と認識する。
 さらに男か女かを問題外としたフェティシズムが重要な地位を占める。性器は「あまり関心ない」ものである。女性器の持ち主とセックスしたことないが、肩と中身が好みなら、たぶんやってるうちに慣れるんじゃないかと思う。まあ、未経験なので保障はできないが。

 オリエンテーションの向かう先、それはじつは多彩である。風呂屋のように「男」「女」という暖簾が下がっているのは、現段階での社会的問題を反映した便宜である部分も大きいのではないか。

 [3]男と女の間

 そのMtFの問いの本質に戻ろう。彼女自身はフェチの傾向が薄いようだったから、その問いは純粋に「男女の性別」を問うたものであり、もっといえば切実に、「あなたは私を男と思うか女と思うか」という問いだったのだ。

 これについては、私の知っているあるカップルに登場してもらおう。
 その二人は生物学的にはどちらも女性だった。一方が、FtMなので、「異性愛」という分類になるが、そのFtMの身体は女性のままだから、他人からはレズビアンに見えたろう。
 そのカップルに、私は聞いてみた。
「この人のことを、女性と思って好きになったの? それとも男性と知って好きになったの?」
 彼女は答えた。
「関係が深まっていくにつれてだんだんわかってきたから、どっちだと思って、ということじゃない」
 今の社会状況で、自分は女性の身体に生まれた男性であると言うことを話すのは(しかも女性のボディのままの状態で話すのは)、ある程度相手への信頼が必要だ。信頼しているから話す、話すことによって信頼関係が深まる、という相互作用、そしてそれが恋愛感情につながっていくというのは、関係性において自然なことだ。
 だから、私はこの二人の話を自然に聞くことができた。自然に納得することができた。
 そして、ちょっと考えた。
 私は10年以上、心身ともに男性であるヤツと同居中である。なかなかいい肩をしたヤツで、初対面のときにまず肩が気に入ったのだが、10年たって仲良しセックスレス状態であっても、あの肩だけは実にフェチ心をそそってくれる。さて、ここで仮定する。もし彼が「自分はほんとうは女性だと思う。これから女性として生きる」と言い出したら? 
 ……たぶん、「そう」と答えて、何も変わらないと思う。逆に私が「ほんとうは男だ」と言い出しても同じである。
 よく、「長年連れ添うと空気みたいなもので」というが、われわれはそうではない。むちゃくちゃ仲いいのである。のろけさせたら止まんないぞ! なのである。
 彼はあっさり「僕は女が好きだ」と言っているし、私もまあ「男好き」と分類してもらっていい。それでも、もはやわれわれの間で、性別はあまり重要な項目ではなくなってきているのである。

 さて、関係性において、セックス(性別・性行為)って何なのだろうか?
 というのはまた、次回、機会があったら、ということで・・・

[木谷麦子]

・セクシュアリティ入門[1] ・セクシュアリティ入門[3]


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