「とくに、同性愛やトランスジェンダーについての授業は、ぼくの性についてのものの見方を根本から変えてくれた。知識は風化していくけれど、一度変えてもらったものの見方は、次のができるまで生きつづける」───
ある高校生が卒業するときにこんな文章を残した。同性愛ってなんだ? トランスジェンダーってなんだ? 性についてのものの見方って? そんなこと知らない人歓迎。そして、そんなこと知っているというあなたといっしょに、「次」の見方をめざしましょう。
※2001年8月に開催された2001AIDS文化フォーラムin横浜での講座を講師の木谷さん(写真)に再構成していただきました。
[1]70年代〜あれから変わったこと、変わらないこと
7月にじつに久しぶりに高校時代の友人6人と恩師で食事会などやった。その席でしみじみ思い出してみれば、この面子を毎日合わせていたのは1976年、ちょうど四半世紀前ではないか。というわけで、思わず時を振り返ってしまった。
<木谷麦子さんの主な著書>
『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』編著(夏目書房、1999年、2,600円)
『ある日ぼくは「AIDS」と出会った』(ポプラ社、1998年、1,400円)
この6人は、高校3年の9月という時期に新しいサークルを立ち上げた馬鹿者だった。「女性問題を考えるサークル」、この表現自体がいまや古色蒼然としているが、フェミニズムという言葉がまだ一般化していなかったんだなあ。翌年大学に入ったら、「両性問題研究会」というのがあって、この問題は女性だけでなく男性の問題でもあるんだ、という見方をしている人たちも、当時からいたわけだ。
70年代といえば、セクシュアリティ(イマの言葉だなあ)に関しては、一つの転機であった時代といえる。70年安保の敗北以来、「若者が無気力になった」といわれた時代であったが、これは「若者」というとオトコしか目に入らない前世代のオヤジ(っていうか今はじーさんだけど)の見方であるともいえる。なんのかんのいって男性原理で動いていた学生運動の後、経済と文化の爛熟期を迎えて、女性の方は、元気になっていた。もちろん、戦後民主主義から学生運動にいたる道で、徐々に元気になってきていたのだが。
NHKの7時のニュースで、女性が初めて政治ニュースを読んだのもこの時代。それまでは、政治のニュースは男性が読み、女性はお天気とかまあ、そんなところと決まっていた。「女性が初めてニュースを読む」ことそのものがニュース性をもって事前に新聞などで論じられ、高校では社会の教師が話題にし、それでいて今から思えばものすごくわざとらしいシチュエーションでこの日のニュースは女性によって読まれたのだった。
テレビで生理用品のコマーシャルが流れたのも70年代。それ以前は、生理は暗く、女性自身が女性性を否定したくなるもののシンボルとしての意味ももっていたが、じつにこのときを境に「単なる生理現象」への道がはじまるのだ。
また、今回のお題に直結して言えば、ゲイやレズビアンのサークルが、しっかり活動を始めた時期でもある。女性問題関係のミニコミを扱っているところで、「女から女たちへ」というレズビアン・フェミニストのミニコミを読んだりしたものだ。
自分の高校のときの話が自分自身にとってこんなに「隔世の感」を感じさせるものだとはちょっと愕然とするが。しかし一方、変わらないこともある。
本屋に行ってみよう。「ジェンダー」「セクシュアリティ」に関する本は、どういう分類の棚にあるだろう? 結構大きい本屋でも、「女性」のところにあったりする。「福祉」かなんかの横に「女性」という棚があり、そこにジェンダーの本は置いてある。下手すると、ゲイについての本もここにある。女性じゃないってば、と突っ込みを入れてみても、25年前に「両性問題研究会」を名乗った人々の認識さえ、結局のところ大勢にはなっていないのだ。これだけじゃない。ずいぶん柔軟になったように見えながら、根幹は変わっていず、柔軟になったために「声高に批判する人々」がワルモンの役回りになってしまったりして、あんまりよろしくない傾向さえある。あの、最初の「女性が政治を読む」ニュースのシチュエーションのわざとらしさは、それでもいまのやわらかさを作ってきたのに。
でも、こんな状況の中で、やっぱりもっとやわらかくなりたいのだ。四半世紀前の高校生だった自分以上に、私はそう思っている。
[2]「同性愛」そしてセクシュアルオリエンテーションの授業
私は、1988年から、「同性愛」〜「セクシュアルオリエンテーション」についての授業を、10代の学生に向けてやってきた。これも思えば13年、学生の反応も、私自身の授業も変わってきた。
初期のころは、もろに「同性愛について」の授業だった。「男性同性愛者」が、HIV感染の「ハイリスクグループ」と呼ばれていたころだ。サンフランシスコの様子なんかを見てきて、促成の人権ミーハーだった私は、「同性愛者を差別しちゃいかん」と、まあ、そのまんま言わないまでも、そういう趣旨の授業をしていた。
いい反応をする学生もいたが、はっきり反発する学生もいて、後者と私との激しい応酬で授業が終わってしまうということもあった。数年後、ゲイブームがやってきたときに、私は方法を変えた。
ブームに乗った女の子たちは、情報をたくさん持っている。さらに、それとはちがう情報をもっている私の話を聞きたがった。たんなるファッション的興味であって本当のゲイへの理解ではないという指摘もあろうが、少なくとも、彼女らによって、「同性愛の話を授業ですること」が、「楽しい・積極的な雰囲気」に変わったのだ。
現代では「差別」することは悪いことだ。「同性愛者を差別しちゃいかん」という論調の授業をすると、抵抗感を持っている学生は、「おまえは差別者で悪いやつだ」と言われているように思う。そして自分を守るために攻撃的になる。さらに反論されれば、同性愛者を非難することで自分を正当化しようとする。結果、最初実際に感じていた以上に拒否的なことを大声で言ってしまったりする。そして、彼らへの対応に追われる教師は、関心を持っている学生、情報を必要としている学生に目配りする間もないまま、不毛な論争で熱くなって、授業が終わる。
ブームを導入に使うと、こうした不毛な論争を抑えて、自然に授業に入っていくことができた。
さらに、ゲイやレズビアン自身も変わってくる。90年代の初め、ピアカウンセリングをしていたレズビアンにこんなことを聞いた。「最近の若いコは、同性愛自体で悩んでいるというより、同性を好きなことはそれでいい。ではどうして生きていけばいいか、どうすれば快適に生きられるか、と考える傾向があるようだ」
なるほど。たとえば「女性」と考えるとする。授業で「女性はこんなに差別されている!」と言って、レイプや法的問題点を羅列されて、「差別するな!」という教師と、「女なんかだめだ!」とわめく男との応酬から構成される授業が、女性にとって有意義かというと……私ならうざいだけだ。(もちろんそういうことについて意識の低い女の子たちも不安だけど)。
かくして、私の授業の中では、同性愛・両性愛・異性愛、すべてが同じバランスで存在するということが、自然で日常的で現実的なんだよーん、という感じでいくことにした。結局それを前提として出してしまったほうが、大方の場合、内容に広がりが出た。
[3]性同一性障害
これについて授業でまとまってやるようになったのは九五年くらいからだが、じつは88年の時点から、触れてはいた。
当時、黒柳俊恭氏とお会いする機会があり、資料なども紹介してもらったのだ。氏の著書『彷徨えるジェンダー』も、当時出たばかりだった。これは、新宿2丁目の「男性を好きな女装者」を中心とした、学問的フィールドワークの本だった。「女装者と同性愛者を混同している」「セクシュアリティの問題を学問で切ってしまっている」などの批判も浴びた本だ。
だが、今思うと、黒柳氏の焦点は最初から中間的でデリケートな部分にあったのであり、ある意味で「早すぎた」のかもしれない。私も氏に会ってからずいぶん後に、その重要性を理解したのだった。
Gender Identity Disorder(性同一性障害)は、体の性別と、心の性別が合っていない事。例えば私が、女性型のボディをもっている。しかし、それに違和感を感じる、「これはちがう」と感じるのが、GIDである。
アメリカ精神医学会は、とりあえずその中で3つに分類している。これは医療の都合上の分類ともいえるし、また、検討中で可変のラインだともいえるが、いちおう「入門」のためにも紹介しておこう。(図参照)
体が男性で、心が女性である場合をMtF(Male to Female)、体が女性で、心が男性である場合をFtM(Female to Male)という。
「トランス・ジェンダー」の「ジェンダー」は、いわゆる女性問題的ジェンダー・ロールとはちがう。
前者のジェンダー(ロール)は、社会的性役割、社会が、特定の性別の特質、あるいは役割だと思っているものである。家事をするのは女性、論理的なのは男性、というようなものだ。しかし、保阪尚輝はGIDではなく単に「料理をする男」であろう。GIDについて使われるジェンダーとは、自認における性別である。
GIDは、「性別」は、体がそのときどういう状態にあろうと、心の性別のほうで考える。セクシュアル・オリエンテーションも同様だ。
たとえば、一人のMtFがいたとする。自認が女性なので、体の状態が男性ままでも女性である。この人が、女性を好きになったとする。女性が女性を好きになるのだから、同性愛。この人が男性を好きになったとする。女性が男性を好きになったのだから、異性愛、である。
最近はだいぶちがって来たが、それでも一般には男性同性愛者とMtFは混同され、なおかつ、MtF、オトコが女になりたがるのだから男が好きに違いないという文脈になっている。実際には、身体に違和感がない男性と、男性のボディをもちつつ違和感を持っている人はちがう。
ここは大切なポイントだ。
しかし、ここを分けすぎると、現実にいる人たちを否定してしまう場合もある。私の知っている人で、ゲイでトランス・ヴェスタイトである人がいる。彼はふだんは「彼」であり、男性が好きである。月に一度くらい、どうしても「女装」がしたくなる。(まさに黒柳氏が焦点を当てたところに立つ人なのだ)。
セクシュアリティについての分類は、どんなものであっても、「入門のときに便利な目安」である、くらいに思っていたほうがいいかもしれない。
分類の中間的なところ、あるいは分類の間を移動すること、人間のセクシュアリティは、むしろそんなふうに捉えたほうがいいのかもしれない。
[4]話しきれなかったこと、書ききれなかったこと
セクシュアリティがそんなようなわけなので、この稿はとりあえずの「まとめ」。話したけれど書ききれなかったことは、「セクシュアルオリエンテーション・イベント説」「フェティシズム」「セックスレス」など。
またいずれ、機会があったらお話しましょう。[木谷麦子]