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講座3
HIV陽性者をとりまく状況:その経緯と現状〜薬害被害者の取り組みを中心に〜
講師:社会福祉法人はばたき福祉事業団 理事長 大平 勝美 氏 (2006.11)

はじめに

 はばたき福祉事業団の大平です。よろしくお願いいたします。今日、私のほうから皆さんにお話しするのは薬害エイズの問題、私たちの薬害エイズの問題の現状のことを少し触れさせていただくのと、薬害エイズが起きた当時との関連なんですけども、主催者の方からは、私たち感染した患者が進めてきた初期の病院開拓とか、内部疾患としての障害者手帳ができた経緯ですとか、被害者が生きていくためのいろいろな救済のための恒久対策。恒久対策は、HIV感染症の患者さんたち全体の関係もあるんですけれども、恒久対策の実現に薬害被害者が果たした役割とかそういうものを紹介していただきたいということと、それから私たちに残された課題みたいなものを話して欲しいということでした。

HIV感染症を持った患者の苦しみ、悩みは同じ
 私たちとしても、障害者手帳の問題についてお話しする時に、特に触れておきたいと思うことで、感染したものについては、薬害エイズ被害というのは血友病の治療から感染した被害者なんですけども、その被害者と、それからまたいろいろな原因で感染された方たちとの苦しみっていうのは、同じ苦しみだというスタンスで私たちはずっとやっています。
 訴訟の段階、そして現在では訴訟で勝ち得た恒久対策を国との協議とか、いろいろなところで行っているんですけども、私たちの考え方、スタンスというのは、HIV感染症を持った患者の苦しみ、悩みっていうのは同じだなというところで、それはもう一貫しております。
 そういったことを背景にしながら今日はちょっとお話しさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

1989年までの動き

血友病患者と血液製剤
 私も血友病患者なんですね。私たち血友病患者は、血液を固める凝固因子っていうのが少し足りない人、それからまた全然ない人とか、いろいろな症状を持っているんですけど、血液を固める凝固因子っていうのが先天的に足りない。ですから出血した際には足らない凝固因子を、人の血液でつくられた血液凝固因子製剤で補充します。血液の血漿部分を凍結乾燥し、パウダーにして、冷蔵庫で保存できる状態にあるこの血液製剤を、出血したときに注射して治療します。血友病患者が一番多く出血するのは体重など負担がかかる膝とか足首、また肘などの関節に内出血することが多いんですね。そういう出血が起きた時に、深部出血っていうんですけども、関節に血液が溜まって腫れるもんですから大変痛くなって、それを治すのにこういう血液製剤を注射する。足りない凝固因子を補充するっていうだけなんですけども、意外と単純な治療なんですね。
 私たちは自分で注射して、血管に針を刺して溶いた血液製剤を注射して、それで治すということをしています。あまり血液とか血液製剤が便利に使えない時には、使えない時代があったわけなんですけども、40年くらい遡ると、あまり輸血とか血液製剤が便利に使えない時代でした。そういう時代を経てきて、私なんかは57歳になるんですけれど、そういう年取った血友病患者っていうのは、小さい時からこういう関節の出血をたびたび繰り返すものですから、関節の機能障害が起きてしまいます。私なんかは肘が曲がらなかったり、膝がですね、きちんと伸びなかったり曲がらなかったり、正座ができないんですね。そういうような感じで障害が残っています。それが、こういう製剤を自分で注射できるようになって大変便利になってきて、今の小さい子どもたちは製剤をすぐに打つことができるので、関節の障害も少なくなって、ほとんど障害がない血友病患者として過ごすことができます。

血液事業がもたらした薬害エイズ
 この血液凝固因子製剤なんですけれども、疑わしいエイズ原因ウイルスや肝炎のウイルスを不活化するため、アルブミンが行われていたような加熱処理をしていなかったんですね。この製剤、たとえばコンコエイトっていうミドリ十字の非加熱濃縮製剤ですが、1980年代のはじめぐらいですかね。エイズがアメリカ中心に流行りだした時に、アメリカで売血でつくられているんですね。この売血でつくる血液製剤は、5,000人〜1万人の血液を血漿プールにいっぺんに集めて工業的に作るんですね。そういう時に1人のHIVに感染している人の血液がそこに入ってしまうと、だいたい数万人から作られる血液製剤が全部、HIVで汚染されてしまう、そういう性質のものなんです。そういうものがアメリカから世界中に輸出されていまして、その中でたまたま、私もそうですけども、こういう製剤を使って治療していた時代に感染してしまった。これが日本の献血でつくられていれば、当時の日本はエイズフリーだったので、私たちの被害は起きなかったと思います。
 エイズ汚染の製剤の危険性は指摘されていたんですけども、それが製薬会社も、それからまた国もそんなに心配していなくて、「安全だから使い続けなさい」と。1982年〜1985年の間に非加熱濃縮製剤が作られて、そして、汚染製剤の在庫を一掃するように、私たちは治療現場でたくさん使われてしまった。日本に血友病の患者っていうのはだいたい5,000人ぐらいいて、その中で、だいたい1,500人ぐらいの人たちが感染してしまったんです。

一番ショックだった診療拒否
 当時、1982年ぐらいにアメリカで血友病患者にも感染するっていうのが分かってきていて、やはり感染ルートとしては血液製剤を介しての感染が濃厚だと報道されていた。よく記事などで言われた「3H」、血友病患者というのはヘモフィリア(hemophilia)っていうんですけども、ホモセクシュアル(homosexual)の方たち、ハイチ人(Haitian)の方たちも含めて、「3H」というような感じで、そういうように社会で呼ばれるようになって。皆さんもご存知の方いると思いますけども、当時は、社会的に危険な感染症というような感じで、20世紀のペストなんていうことも言われたりして、世界中で恐れられてしまった。そういう偏見や差別が一旦出てしまうと、なかなか取り除くのは難しくなってしまう。特に1982年〜1985年頃というのは、日本ではエイズの問題っていうのは血友病患者を中心に報道されていたものですから、血友病=エイズというような感じで、現実に多くの差別を受けました。
 私たちが一番ショックだったのは診療拒否でした。私たちは血友病の治療でずっと小さい時から病院に行っていました。で、病院に行っていた時に、血友病の専門医の先生たち、つまり小さい時からずっと懇意にしていた先生たちが、エイズに感染しているかどうかっていうことを知らせない、検査結果を告知をしない方針を決めたり、また、ほかの患者さんたちに迷惑になるからということで診療拒否をされたりしました。私たちがエイズの問題で困った時に一番頼らなければいけない病院から来てほしくない、来てくれるなという、そういう診療拒否が1990年ぐらいまでの間、ずっと続いていくわけです。それが私たちにとって一番大きな衝撃でした。

神隠しに遭うように
 医療者が怖がるということが社会でも怖がるということに通じるわけなんですけども、それは現在続いています。そういう差別の問題は、私たちの命の問題と平行して、社会的生活から排除されていってしまったというところが一番大きな問題になっていました。
 1986年ぐらいですかね、アメリカで3人の血友病患者の子どもがいる家庭がありまして、その3人とも感染しているんですね。その3人の家庭が、南部の田舎の方なんですけど、地域の人たちから迫害されて、家が焼かれてしまった事件がありました。これは、HIVに感染している人たち全般の問題なのですが、アメリカだけではなく、世界的にも、いろいろなところで社会的に排除される状況が起こっていました。特に小さい時から血友病だということが分かっている私たちの社会生活っていうのは大変生きづらい、生活しづらい形になってしまったという状況がありました。
 社会がエイズパニックみたいな状況の中で、私たちとしては、本当に、血友病という声も上げられなくなってしまったり、そしてまた、病院にも行けないという中で、じゃあ、どうしたら生きていけるのかというところがありました。
 私たちの集団の中で、だんだんだんだん、エイズが原因で死んでいく患者が増えていくんですね。さきほど言いましたように、血友病患者は日本で5,000人ぐらいしかいないんです。各地に血友病の患者会みたいなものがありまして、その中でみんなだいたい顔見知りなんですね。名前を聞いたり、どんな現況か知っているわけで、だれそれ君が死んだよ、とかっていうそういう情報が伝わってきます。1983年に東京で2人の患者さんのエイズの発症というのは、認定はされなかったんですけども、私たちの中では分かってきていて、そしてそれが、だんだんだんだん少しずつ増えていって、1985年は本当に身近なところで少しずつ、本当に神隠しに遭うように死んでいく患者が増えていきました。

検査告知と最善の医療を求めて
 冒頭で、病院開拓と述べましたが、HIV/AIDSの専門的な医療機関をどういうふうに私たちは開拓していったかについてお話しします。
 当時は何もすることができなかったので、医療者のほうも何ともできなかったという抗弁がありますけども、でも、私たちとしてはなんとか命を救って欲しいということを医療機関、それから国にもお願いするようになったわけです。でも、結局、先ほど言いましたように、血友病の専門医の医療機関からは感染の事実というのも知らされない、そしてまた、血友病患者の入院とか通院についても快く思わない医療機関がだんだん増えてきて、結局、血友病の専門医集団からは見捨てられたような形で、患者はどんどん孤立していくという状況にありました。
 血友病専門医集団からは、感染している者も感染していない者も同じような生活をしなければならないという、そういう人間性を無視した変な指導が大手振って出てしまった。私たちとしてはもし感染したら、最愛のパートナーだとか、それからもしかして子どもを産む場合にも子どもにも感染していくかもしれない、そういうことも含めて、一つは「これは感染症なんだからきちんと検査結果を教えてくれなきゃいけない」ということ。それからもう一つは、自分たちの命を守るには、もしかしてアメリカとか欧米に専門的な医療を受けたいという人が出てくるかもしれない。そういう「最善の医療の機会をきちっと提供して欲しい」ということで、血友病の専門医集団とは喧嘩して、そして感染症の専門医を探しました。

東京大学医科学研究所附属病院が駆け込み寺
 それが東京大学の医科学研究所附属病院で、最初に私たちといろいろ話し合いをして、きちんと検査結果を教えてくれる、そしてまた、感染症として十分な治療の方針を持って、検査を行った後のフォローをきちんとしていってもらえないかと、そういうような話し合いの中で、私たちの最初の駆け込み寺みたいなところが、東大の医科学研究所附属病院にできました。私たちが正式に病院開拓の第一歩を始めたのがこの病院です。
 都立駒込病院ですとか、いくつかの病院の中で熱心な先生方が、エイズの治療に専念されていたんですけども、ただやっぱり、病院全体で取りかかっているかどうかというところはまだ疑問でしたし、それからまた、国全体として救っていくという方針もまだきちっとできていないというところで、個人レベルでの医師や看護師らの熱意に頼っているというところがあったわけなんですが、東大の医科学研究所病院は病院全体で「じゃあ、やろう」ということになって。そして第一歩が始まったということです。
 しかし、東大の医科学研究所病院だけで最善の治療ができていくかっていうと、それは国が援助してくれなければ、国が動かなければ、新しい感染症としてのいろいろな治療の方針というのはできないので、私たちとしては「このまま死んでいくのは嫌だ」と立ち上がった。血友病専門医との戦いもありましたし、どんどん次々と仲間が死んでいく中で、このままだと私たちみんな、殺されてしまうんではないかということで、1989年に東京と大阪で、責任もって治療体制を作って欲しい、命を救って欲しいという、薬害のHIV感染被害者の救済を訴えた訴訟を提起しました。

エイズ予防法による社会的な刻印
 並行して、1986年に、エイズ予防法を作ろうという動きがでてきて、このエイズ予防法については私たちも大変反対したわけですね。ハンセン病の問題がありましたよね。ああいうように、一つの病気を法律で対策立てるべきと定めてしまうと、その法律は一人歩きをしていって、エイズに対しての社会的な刻印というのが定着してしまう危険が大きい。
 それは絶対に許せないということで反対はしたんですけども、残念ながらこのエイズ予防法は1988年に成立してしまいました。
 この予防法に対しての懐柔策として、拠点病院整備とかとりあえず国はやっていますよというポーズ的なことを行いだしたわけですが、でもエイズに対しての社会的な、この病気は法律で考えなくちゃいけないぐらいに大変な病気なんだよ、危ない病気なんだよというようなことを、社会的に位置づけてしまったということが、私たちにとっては一番ここは辛いことでした。これが今もずっと残っていく、一つの背景にもなっていくと思います。

1989年〜1996年:薬害エイズ訴訟

薬害エイズ訴訟
 1989年から1996年まで7年間、私たちは薬害エイズ訴訟をずっと続けてきました。私たちとしては「殺されてたまるものか」ということと、「元の血友病患者に戻して欲しい」ということを訴え続けました。血友病はそんなに簡単に死んじゃうような病気じゃないんですね。よく血液製剤がないと生きていけないんだ、ということを言われるんですけども、私も小さいときから20年くらいの間は大変なときには輸血をするくらいで、血液製剤のない時代を生きてきたんですね。常に断崖の縁に立たされるような、そういうようなところに追いやられるような病気ではない。そしてまた、生きていくための保障をきちんとして欲しいということで、「生きる訴訟」として、ずっと続けてきました。

社会の支援が大きなうねりに
 たぶん皆さんもご存知だと思うのですが、その当時、裁判の途中で社会的な支援が大変、大きくなっていって、そして、特に厚生省を囲む人間の鎖みたいなものができたり、本当にたくさんの人の応援を受けることができました。これは次々に死んでいく患者の状況っていうのを社会は大変深刻に受け止めてくれたというところがあります。
 当時、1989年から1996年ぐらいの間っていうのは、よく言われるんですけど、5日に1人、4日に1人という感じで私たちの仲間は亡くなっていきました。それは全国的なんですね、東京だけではなくて。地方にいっぱい血友病患者がいますけど、そういった感染した血友病患者の中でポツンポツンと亡くなっていく人たちが増えていって、本当にこのままほっとくと、本当にみんないなくなってしまうんではないかというぐらいに危惧される勢いで亡くなっていく患者が増えていきました。
 これは、東大医科研ですとか、駒込とかいろいろなところで一生懸命頑張っていただいていても、やはり欧米のHIV医療の水準と日本のHIV医療の水準とは、当時はまだかなり格差がありまして、私たちは十分な治療を受けられないまま死んでいっているというのが現状でした。

裁判官の心象が変わる
 裁判で本人尋問がありまして、患者本人、それから遺族の人たちに対しての尋問があって、そこで、よく私たちが言ったのは、満足な医療を受けられずに死んでいった患者が本当にいっぱいいた、ということです。医療自体を受けられない人たちもいっぱいいました。
 象徴的なのは、大学病院で教授回診とかってありますね。そういう時に、教授が回診する時に自分の手は絶対触れないで、棒みたいなものでパジャマをめくって診ていたとか、そういうこともよく聞かれました。あとで医療の再構築の話をしますけども、医療者が本当に偏見というか差別的なものを持っていた。

治療薬開発、治療体制整備への衆知の結集を命令
 満足な医療を受けられずに死んでいったということが、裁判官の心象を大きく変えまして、最終的に1996年に和解ができるんですけども、その和解の時に、裁判所が出した所見の中で一番大きな命令、国に対しての命令ですけども、それは国の衆知、多くの知恵を集めて、薬害被害者だけではなくて、新しい感染症であるHIV感染症に対して、最善の努力を重ねてHIVの医療体制をもう一回作り直しなさいというものでした。
 これをもとに私たちは国立国際医療センターエイズ治療・研究開発センター(ACC)ですとか、8カ所のブロック拠点病院(北海道、東北、関東甲信越、北陸、中部、近畿、中国四国、九州)、また、拠点病院を改めて整理し直すという要求をしました。このほかにも、HIV感染症の患者さんの内部疾患としての障害者認定の要求もしました。これは、医療・福祉の再構築を行うため、また、先ほどエイズ予防法の話をしましたけれども、私たちとしては、社会から排除されるような、防疫対象みたいになっている患者から、きちんとした、あたたかい福祉・医療を提供しなければいけない患者へ、という、そういう一つのイメージチェンジみたいなものを、この内部疾患の障害者認定の中に込めて要求をしました。

1997年〜現在:和解と恒久対策の実現

和解と恒久対策
 HIV医療体制は個々の病院の熱意だけで作れるような問題ではないので、国が責任を持ってHIV医療を展開するということで、ACCと8ブロック拠点病院を中心に全国展開で、全国どこにいても医療格差がないように、最善のHIV医療を受けられる体制を作ろうと、作りなさいと、厚生省に要望して恒久対策の協議を始めました。
 その中心は、患者も一緒になってチーム医療でおこなっていく、患者参加型医療です。これは医者だけではなくて、医療スタッフ全員がみんなで責任を持って一人の患者を診ていくという体制を作って、全体で診てもらおうということで考えました。これがHIV医療体制を作る一つの大きな根幹になっています。
 あとは、HIV医療体制について厚生省、病院、患者で協議して、HIV医療の進展がうまくいっているのかどうかというのも見直しながら進めていくための協議の場を持っていくこと。その根幹は、やはり医療のエンドユーザーは患者であるということ、そういうことを常に考えてこの協議を持っていくようにしました。

障害者認定の経緯
 アメリカではかなり早い段階で、HIV感染者に社会的な差別がないようにということで、ADA法(Americans with Disabilities Act)によって、障害者として差別禁止など福祉の対象となっていました。私たちも、「社会防衛の対象」から「社会福祉の対象」として扱うということを、まずは最初の視点に持ちました。それは偏見、差別の対象からのイメージチェンジなんですね。
 私たちは血友病の治療ということで全体としてHIV感染症も医療費がかからなかったんですね。だけども、私たちと同じように治療をしていて、一緒に外来、入院している性感染の方とか、血友病患者以外の方についての医療費というのは大変、高かった。薬代も高いですし、それからまた検査料金とかそういうのも大変高かった。感染経路を問わず、HIV感染者の苦しみ、命の戦いは同じなのに、ということで、私たちとしてはなんとか、公的な医療の助成というのはできないだろうかということをずっと考えていました。和解交渉に際して、恒久対策の一つとして障害者認定を要求しました。

「カネをザルに捨てるようなもの」
 アメリカとか、外国でもHIV感染症の検査とか治療については公費負担とかかなり言われていましたし、医療費が高くて治療がきちんとできない場合には治療は遅れるし、検査もしない方向になってしまう。それは感染が広がる原因にもなってしまうということで、是非、きちんとこれを取り入れて欲しいと、国と協議をしました。
 協議の中で、内部疾患の障害者として認定をして、それを更生医療の中でみていこうという、そういう方向で決着を見ることができました。これは、日本の国としてはかなり画期的なことで、感染症の疾患の中で障害者認定を認めたいうのは初めてなんです。こういう経緯がありまして、1998年から、障害者認定の中で、HIV感染者・患者の皆さんが身体障害者として認められるようになりました。
 このことは皆さんに分っていていただきたいんですが、この障害者認定、国の方は原告と約束をしているので、なんとか通そうという方向を持っていたんですけども、厚生省障害保健福祉部の「障害認定に関する検討会」全体としては最初はあまり積極的ではなかったんですね。特に象徴的なのが、第3回の検討会なんですけども、中島座長というのがいまして、HIVの感染症を障害者認定にするっていうこと自体、「カネをザルに捨てるようなもの」というような差別的な発言をしました。これは、座長自体もすぐ首になってしまって、当時の厚生大臣が小泉さんだったんですが、厚生大臣も怒ってしまって。これで逆に弾みが出てきて、検討会で十分審議されるようになって、障害者認定が決まっていくというような経緯になりました。
 こうした中で、「ヒト免疫不全ウイルスによる免疫の機能の障害に係る身体障害認定に関する検討報告書」ができました。
 でも、いろいろな審議会とか医学会の中ではこういうふうに、表向きはあまり言わないんですけども、裏では割とHIV感染症に対しての差別的な感覚というのはずっと持ち続けられていたという一つの象徴的な出来事でもありました。

障害者認定の三つの意義
 障害者認定の意義には三つありまして、「障害の重度化防止やHIV感染者の生活の質的向上の観点から福祉サービスを提供することが有効であること」、「HIV感染者は、最近の医学の進歩により、日常生活の制限を受けながら長期間生存するケースが増加していること」、「HIV感染者は、身体障害者福祉法の趣旨に合致すること(機能障害の存在、障害の永続性、自立と社会経済活動への参加の可能性)」。この三つの観点から国は障害者としてきちんと認定していくことになりました。
 名前の方はヒト免疫不全ウイルスによる免疫機能障害というのが、もしかしてエイズとすぐに関連づけられてしまうのではないかということで、もうちょっとあとなんですけども、免疫機能障害というちょっとはっきりしない病名なんですけど、そういうのをつけてもらって、障害者手帳が交付されることになりました。

ヒト免疫不全ウイルスによる免疫の機能の障害に係る身体障害認定に関する検討報告書(1997年12月)
http://www1.mhlw.go.jp/shingi/s1216-3.html
HIV感染者の身体障害者認定について(1997年12月)
http://www1.mhlw.go.jp/houdou/0912/h1216-1.html

恒久対策:医療・福祉・遺族の救済
ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)「ピアサポーター養成研修会講義録」スライド
ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)「ピアサポーター養成研修会講義録」スライド
ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)「ピアサポーター養成研修会講義録」スライド
ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)「ピアサポーター養成研修会講義録」スライド
ライフ・エイズ・プロジェクト(LAP)「ピアサポーター養成研修会講義録」スライド

 スライドにお示ししているのが、私たちがずっと持ち続けている恒久対策の課題です。医療体制についてはACCですとか、ブロック拠点病院、拠点病院整備、こういう問題をずっと毎年、国と協議しておりまして、最善の医療に結びつくようにしています。
 差額ベッドの解消というのは、HIV感染症で、病気が進行したりして個室が必要な場合に、診療報酬への一定の加算を認める代わりに、患者への請求を行なわないことを実現しました。福祉については障害者認定によって、障害年金のほうも連動して出てくる。
 私たちの問題として、遺族の救済についてもいろいろな事業を行っています。グラフは少し古いんですが、年次集計としては1995年をピークに本当にこれだけの人たちが亡くなっていって、2006年10月1日現在で593人の人たちが亡くなってしまっているんです。一緒になって提訴した人のだいたい43%です。

はばたき福祉事業団の活動
 「社会との関わり」というスライドは、私たちが取り組んでいるはばたきのほうの取り組みです。
 はばたきでは献血キャンペーンを今一生懸命やってるんですが、先ほど言いましたように、日本の献血で私たちの製剤を作っていたらもしかして血友病の患者で感染する人はほとんどいなかったかもしれないんですね。その当時は日本の中ではエイズはまだ流行していなかったというところがありました。ですから、WHOとかでは自国の血液で血液製剤をちゃんと作りなさいと勧告をされていたんですけども、日本はそれを守っていなかったんですね。そのためにアメリカの売血で作られた製剤を私たちは使っていて、そして感染してしまったということがありますので、やはり身近なところで、きちんと血液製剤みたいなものは安全監視ができていないとやはり危ないなというところで、私たちはいつもこの献血の問題を訴えかけています。それをずっと今やっていますので、是非、皆さんにもご協力お願いしたいなと思っています。
 あとは全国からACCに来る研修生などの医療スタッフへ、薬害エイズ和解後のHIV診療体制を説明するなどの講習をしています。慢性疾患をかかえる人々が病気と上手く付き合い、自分らしく日常生活を送ることができるように支援する、セルフマネジメントプログラムの推進・普及も行っています。
 相談事業については電話相談、また訪問相談などをケースカンファレンスをやりながら進めております。遺族・患者・家族からのいろいろな相談について一人ひとり、専門家を交えながら、よりよい相談をしていこうというふうにしています。
 薬事審議会の部会などいろいろな審議会にも参加しています。私たち自身がやはりこういう審議会に出て行って、当事者の発言をしていかないと、研究者とかいろいろなお偉い人たちの発言だけでいくと、責任を持った施策というのは本当にしてくれないということが実際に出てみてよく分ったんですね。こういうところにやっぱり患者もどんどん出て行って、そして自分たちもこの中に参加してどんどん変えていくことが大事だと思います。
 このほか、ライブラリーを開設したり、子ども教育プログラム、メモリアルコンサートなどを行っています。

声をあげて国を変えていく

 やはりHIV感染症というのは治療でコントロールができるようになっていっているといっても、やはり、治療の水準ですとか、治療の機会を失ってしまうと、悪くしてしまうと、やはり怖い病気だというところもあります。たぶん、皆さんもいろいろな相談にのったり、いろいろ患者さんと接するところが多いと思いますけども、やはり治療との接点というものを是非十分考えていただいて、それがやっぱり一番基本ではないかなというふうに私たちは思っています。そこに、精神的な悩みですとかいろいろなものが加わってくると思うんですけども、やはり命との戦いというのが基本にずっとあって、残念ながらHIV感染症の治癒は今のところないわけなので、そして進行性なところもありますので、そこはやはり十分気をつけていただきたいと思っています。
 そのために、私たちは常に、HIVの医療体制、一番そこを念頭に置いていまして、先ほど話しましたACCですとか、八つのブロック拠点病院が整備されて、そこに行けば、最善の一番の治療、また日本で手に入らない薬もそこではきちんと必要な時には手当てするというそういうようなことも含めて、国が責任を持って整備している医療機関が設置されているので、そこはやはり私たちとしては、駆け込み寺みたいなところがあるという位置づけになっていますので、是非、活用していただきたいなと思っています。
 また、330以上の拠点病院が日本全国に整備されていますけども、残念ながら拠点病院というのは、医療水準としてはよくできているところと、なかなかまだ患者さんがいないのでスタッフが揃っていないというところもありますので、そこは拠点病院とブロック拠点病院との連携をうまく取っていただく。また、そういう連携がうまく取れていないとしたら、もし不都合なことがありましたら、厚生労働省の疾病対策課ですとか、私どもでも構いませんので、どんどんご意見をいただけたらありがたいと思います。
 あと、薬の問題については先ほど、1996年の和解を経て、私たちの死亡者数がぐっと減っていくグラフがあったと思うんですが、国がやっぱり本気になって取り組むと状況は変わります。欧米で行われていたHARRT療法っていうのは当時まだ入ってなかったんですね。3年ぐらい遅れていたんです。私たちとしては、感染の始まりは同じなのに、治療の格差があるっていうのはおかしいではないかということで、和解の時に大至急HARRT療法を日本で入れるようにということで、研究導入みたいな形をしたわけなんです。そういうことで、薬の問題とかそういうものも、患者のほうとか、それからまた支援者の方もそうですけども、そういう方たちから声をあげていくと、行政も変わっていく。そしてまた、国は本当に取り組む気になれば、そういう例外的ないろいろな薬も入ってくるという道筋ができるということもありますので、それはどんどん皆さんからも発するのも大事だと思います。これはたいへん私たちとしてもいい教訓になりましたので、是非、そこはまた皆さんと一緒になってやっていきたいなと思っています。